浄土宗知恩院派 京都市左京区北門前町482
大炊御門家の菩提寺
大炊御門家は関白藤原師実(1042年~1101年)の
第3子経実に始まり、その第4子、左大臣経宗が
大炊御門大路(竹屋町通り)の北、富小路の西に
屋敷を構えていたので家名とした。
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経宗は藤原信頼とはかって平治の乱を起こしたが、
二条天皇を女装させ御所から脱出した
その後、西方寺と号し 現在の地に三転した。
地蔵堂の衣通姫(そとおりひめ)地蔵尊は、
允恭天皇の后衣通姫が7歳のとき、疫病にかかって亡くなったが、
冥土にて生身の地蔵尊を拝し、蘇生することができた。
その報恩のために一体の地蔵尊を造ったのが、本像と伝わる。
古来疫病除け、安産守護の信信仰があり、
洛陽48ケ所地蔵尊、第25番霊場に選ばれている。
寺内に 大炊御門家の墓があるが経宗の墓は見当たらない
他に綾小路家、五辻家の墓がある
赤穂浪士・小野寺十内等招魂碑がある
銘には小野寺秀和(十内)・小野寺秀富(幸右衛門)・
岡野包秀(金右衛門)・大高忠雄(源吾)の名がある
十内の母の菩提寺になっているから
十内の妻 丹女が供養塔として建てたものと伝わる
また、柴野栗山の墓がある。
寛政の3博士の一人、老中松平定信に登用され、
寛政異学の禁に参画した朱子学の学者
文化4年(1807)亡くなる 74歳
墓地の入口近くに 豊臣秀吉の幼女と伝わる小五輪石塔がある。
本堂にはその位牌がある。
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