アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

西方寺  赤穂浪士・小野寺十内等招魂碑

2015年07月23日 13時36分56秒 | 寺院

浄土宗知恩院派    京都市左京区北門前町482

大炊御門家の菩提寺

大炊御門家は関白藤原師実(1042年~1101年)の

第3子経実に始まり、その第4子、左大臣経宗

大炊御門大路(竹屋町通り)の北、富小路の西に

屋敷を構えていたので家名とした。

関連記事か ➡ 大炊御門万里小路殿

 

経宗は藤原信頼とはかって平治の乱を起こしたが、

二条天皇を女装させ御所から脱出した

その後、西方寺と号し 現在の地に三転した。

 

地蔵堂の衣通姫(そとおりひめ)地蔵尊は、

允恭天皇の后衣通姫が7歳のとき、疫病にかかって亡くなったが、

冥土にて生身の地蔵尊を拝し、蘇生することができた。

その報恩のために一体の地蔵尊を造ったのが、本像と伝わる。

古来疫病除け、安産守護の信信仰があり、

洛陽48ケ所地蔵尊、第25番霊場に選ばれている。

 

寺内に 大炊御門家の墓があるが経宗の墓は見当たらない

他に綾小路家五辻家の墓がある

 

赤穂浪士小野寺十内等招魂碑がある

銘には小野寺秀和(十内)・小野寺秀富(幸右衛門)・

岡野包秀(金右衛門)・大高忠雄(源吾)の名がある

十内の母の菩提寺になっているから

十内の妻 丹女が供養塔として建てたものと伝わる

 

また、柴野栗山の墓がある。

寛政の3博士の一人、老中松平定信に登用され、

寛政異学の禁に参画した朱子学の学者 

文化4年(1807)亡くなる 74歳

 

墓地の入口近くに 豊臣秀吉の幼女と伝わる小五輪石塔がある。

本堂にはその位牌がある。

 

 

近辺地域記事  地図の右下 ユーザー地図 をクリック


大恩寺  

2015年07月23日 08時59分49秒 | 寺院

浄土宗  京都市左京区北門前町479

 

海上隋鷗(うなかみずいおう)の墓所

隋鷗は本名を稲村三伯といい、江戸時代中期の蘭学者

蘭学を研究し、蘭和辞書を編纂する

文化8年(1811年) 54歳で亡くなる

門人に藤林普山、小森桃塢(とうう)らがいる 

 

 

 

近辺地域記事  地図の右下 ユーザー地図 をクリック


見性寺  織田信長の子ゆかりの寺

2015年07月23日 00時54分53秒 | 寺院

浄土宗知恩院派  京都市左京区正往寺町461

当寺の開基 村井主膳正重勝(見性軒)は、織田信長の庶子と伝わる。

幼い時は 村井長門守貞勝(春長軒)に養われた。

天正10年(1582)の本能寺の変には、

養父 貞勝は二条御所にいて、織田信忠とともに戦死した

重勝は実父と養父を弔うために一宇を建立し、

信長から贈られた「直指人身見性成仏」としるした旗を埋め、

見性寺と号したのが当寺の起こりと伝わる

天正16年(1588)の信長7回忌法会には、

豊臣秀吉も参詣し、寺領を寄進したという。

 

当寺ははじめ 中京区東椹木町にあったが

クリック➡移転元

宝暦年間(1751~1764)に現在の地に移った。

村井貞勝の墓は 寺町四条下ル春長寺にある

 

境内墓地の入口近くには 阿弥陀石仏がある

1325年の鎌倉時代のもので 京都市内にあるものとしては珍しい 

  

 近辺地域記事  地図の右下 ユーザー地図 をクリック