前関白従一位 豊臣秀次公之墓 慈舟山 瑞泉寺
高瀬渠開 者 角倉了以翁建立
大正14年3月 當山第19世
三宅安兵衛遺 建立
瑞泉寺
慈舟山と号し、浄土宗禅林寺派に属する。豊臣秀吉の甥、豊臣秀次一族の菩提を弔うために建立された寺である。秀次の母「とも」は秀吉の実姉。秀次は、秀吉の養子となり、関白の位を継いでいたが、秀吉に嫡男秀頼が生まれてからは、次第に疎んぜられ、文禄4年(1595)7月、高野山において自害させられた。次いで、8月、秀次の幼児や妻妾たち39人が三条大橋西畔の河原で死刑に処せられた。遺骸は、その場に埋葬され、塚が築かれ石塔が建てられていたが、その後の鴨川の氾濫などにより次第に荒廃した。慶長16年(1611)、角倉了以が高瀬川の開削中にこの墓石を発掘して、墓域を再建するとともに、その地に堂宇を建立した。これが当寺の法号、瑞舟寺殿をとって瑞泉寺と名付けられた。本堂には本尊阿弥陀如来像が安置され、寺宝として秀次及び妻妾らの辞世の和歌を蔵している。また、境内には秀次の墓及び幼児・妻妾や殉死した家臣らを弔う49柱の五輪塔がある。京都市
本堂
瓦の「消された菊花紋」
下に並べられた古瓦は、当寺の旧山門の瓦ですが、どれも中央の菊花紋がセメントで塗りつぶされています。これは、明治元年の神仏分離令による廃仏毀釈の大嵐の時、天皇家にはばかって寺が「菊花紋」を自主的に消したものと思われます。現在も本堂の屋根などに同じものが数多く認められます。どれも、当寺の歴史を語る貴重な史料だと考えます。 住職
この堂の中央に安置された地蔵菩薩像は、秀次公一族の処刑の際、四条・大雲院の僧「貞安上人」が刑場の一隅にその木像を運び込み、次々と打たれる子女達に引導を授け続けた、と伝わる尊像です。
極楽浄土へ死者を導く「引導地蔵尊」として京洛の人々に今日なお崇敬されています。寺伝「定朝」作
各位の参拝憶念をお願いします。 住職
堂内に刑死された女性方や子供たちの小像が奉られています。
三宅安兵衛の石碑 前関白 豊臣秀次公墓
左 墓 右 地蔵堂
この御堂は、當寺付近の町内・中島町の「お地蔵さん」で、中には小さな石仏が安置されています。中島町は、京都の古い地図にも記載された町内で、「中島」は「中の島・中州」を表し、秀次公一族の処刑が行われた当時は、この付近一帯が鴨川の大きな中州であったことを今に伝えています。「三条小橋商店街」として現代にも生きる町内です。
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