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浄教寺
多聞山燈籠堂と称する浄土宗の寺で、平重盛が建立した東山燈籠堂の後身と伝わる。
「源平盛衰記」によると、重盛は東山小松谷の小松殿内に48間の精舎を建て、
1間に1体阿弥陀像を48躯を安置し、それに48個の灯籠をかかげ、
48人の若い女房達に1灯ずつ火をかかげさせ
心のやみの深きをば、灯籠の火こそ照らすなれ
弥陀の誓ひをたのむ身は 照らさぬところはなかりけり
と唱えながら、堂の周囲を歩きまわり、礼賛行道したといわれ、これに因んで灯籠堂といい、
重盛は灯籠大臣といわれた。
平家没落後、寺は廃頽したが、その後、東洞院高辻下ルのところに移った。
室町時代の文安年間(1444~49)、定意上人が再興し、浄教寺と改めた。
現在の地に移ったのは天正年間(1573~92)のことで、
本堂には阿弥陀三尊、重盛の像が安置されている。
また境内には重盛の碑、重盛の勧請した熊野権現の鎮守社がある。
平家ゆかりの寺として以前には、平家琵琶の会合が行われていた。
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京都大神宮
明治維新を迎え、江戸時代より盛んであったお伊勢参りが叶わない人々のために、全国都道府県に、伊勢神宮が遥拝出来る設備を設けるとともに、伊勢神宮大麻の頒布などを行うことへの要請がありました。このため、明治6年7月、伊勢神宮の内宮、外宮より天照皇大神、豊受大神の御分霊をお迎えし、それに、諾冊二神、大地主神、倭比売命を配祀し、神風講社を設立、戦後「京都大神宮」として、再出発しました。明治時代より、明治天皇の皇女、親王殿下、時の大臣他、多くの参拝があり、神風講社の結成は百壱社に及びました。
また、明治39年に精華学園を創立、戦後独立するに至りました。
京都大神宮のパンフレット
手水舎の水盤は、太閤秀吉の伏見城にあったものを寄進、移築されたものと伝わっています
本殿は、一条家の書院を移築したもので、唐破風の優美さは、日本有数といわれており、この唐破風を模した建築物も造られたと伝えられています。
この祠には伊勢神宮の遥拝と戦争中、御神体安全の為に立てられたもので、現在、御神体は入っておりません
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