史跡 樫原廃寺跡
この寺跡は昭和42年2月から4月にかけて発掘調査され、八角塔跡などが立派に残っていることから昭和46年3月に国の史跡に指定され、永久に保存されることになった。寺跡には、一辺6mの八角形の瓦積基壇の塔跡を中心に、約35m南へ離れたところに、東西(間口)20m、南北(奥行)約11mの基壇をもつ門と、その左右にそれぞれ幅(南北)5m、長さ(東西)約22mの基壇をもつ回廊が建ち、北へ折れ曲がって南北に65m以上、幅2.4 mの基壇を持つ築地塀が建てられていたことが、発掘調査によって明らかになった
そのほか、塔路の北方約39m離れた所に堂路があるらしいことが地形から想定できる。おそらく、この堂の左右にも回廊があり東西の築地塀に達していたと予想され、堂に後方にも別の堂舎があったと考えられる。
塔跡には、今の地表から深さ約2mの地下に円形の柱型を掘りくぼめた心柱の礎石がある。また出土する単弁八葉の蓮華文をもつ軒平瓦及びその瓦を使って基壇を積む手法から、7世紀半ばに造られた寺院であったと推定される。
この樫原の土地は当時高野郡に属し、葛野の地は秦氏の勢力下にあったことから、この寺院の造営に秦氏が関与している可能性がある。
山背一円には、・・・うに地域に住む豪族が創建にかかわった寺院がいくつつか知られ、発掘調査も行われている。八角の塔をもつ形式の寺院跡はこの時代においてわが国では例がなく京都市民にとって、先祖のことを知る大きな手がかりとなり、国にとっても極めて価値の高い貴重な史跡である。
この地は以前から奈良朝前期の遺瓦を出土することがあり、塔跡と思われる方形の土壇があって、古い寺院であったことをしのばせていた。たまたま付近が宅地造成されるにあたり、昭和42年発掘調査が行われた。また、塔の北方は未調査だが、金堂・講堂らしき堂址があって、四天王寺式伽藍配置の寺であることを推定させた。平安初期頃まで存続した寺院であることが確認された。なお、付近には廃寺に使用した瓦を焼いた窯跡があったといわれるが、破壊されて今はない。ただし背後の丘陵には、百ケ池古墳や一本松古墳など、多くの前期古墳が残存し、この地方が古代文化の繁栄地であったことを偲ばせている。
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