聚楽第の周囲には武家屋敷が作られた。その1つ 上杉家
上杉屋敷址
当地は平安京一条大路のすぐ北にあたる。つまり平安遷都当初は都市域ではなかった。が、西隣地(一条大宮上ル西側一帯)に平安中期の能書家、藤原行成が世尊寺を創建したと推定されており、京外ではあるが当地も早くから開発されたと思われる。
室町時代には、備中国(現岡山県)に勢力をもつ細川勝久の屋敷が営まれた。応仁の乱では一族の細川勝元に属したため、応仁元年(1467)5月、当地も洛中での最初の合戦にまきこまれた。
応仁の乱から約120年後、天下統一を進める豊臣秀吉は、京都に本拠を定めた。征夷大将軍ではなく、関白として、天皇のそばで政権維持を考えたためである。
そのため洛中に本格的な城郭を建設した。現在の一条大宮の西南一帯に位置した聚楽城である。注目すべきは、全国の大名が、秀吉の命により聚楽城のそばに大名屋敷を営んだことである。すなわち京都は単なる豊臣家の中心地ではなく、『武家国家の首都』になったのである。
当地にはその際、北国の大名、上杉(弾正少弼)景勝の屋敷がつくられた。重臣直江兼続も出入りしたことは間違いなかろう。
以上 平成28年6月22日 文追加
上杉景勝の別名の名 弾正の名のついた町名が現在も使われています 屋敷跡の名残でしょうか
石碑前回の記事 ➡
石碑上0037 皇紀2602年 大東亜建設記念 と記されています
荒れてれてはいるが残っています どうなっているのでしょうか
名水上001 梅雨の井
史蹟 聚楽第遺址 豊臣秀吉造営するところの聚楽第の内のありし井戸なりと遺す此地はもと聚楽第内部の東南隅に近き處にあたる
昭和3年3月 京都府
梅雨ノ井 昔聚楽第御城有し時太閤秀吉公御茶の水給ふ井の深さ一丈余 岩を組みたる井筒あり、高さ二尺三寸、四方各三尺五寸あり。梅雨の入より水、井筒の上へ越して外へ流れたる。梅雨の井の東数歩に八雲神社と樹幹径二尺五寸許神木と稱せらるモチノ木あり。
平成2年1月の地上げにより、神社とモチノ木は破壊されたが、遺蹟復元の請願書は市議会で採択(平成2年12月15日)。私たちは文化と歴史の町、京都で暮らしに息づく史跡を守り復元させ生活を守ることを宣言する。
平成4年7月吉日 聚楽第遺蹟梅雨の井と住環境を守る会
説明文 平成28年6月22日 追加
これでは、案内して人を呼べる状態じゃないですね
鵲橋旧跡 と 赤丸が2つある場所の 右の赤丸が 梅雨の井の場所
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愛宕山大権現
愛宕灯籠 前回の記事 ➡ 愛宕灯籠039 弥勒寺を西へ
38 愛宕灯籠 38 垣根の中に埋もれて 道標・浄住寺地蔵院の向かい
33 愛宕灯籠33 葛野七条
32 愛宕燈籠 上桂
31 愛宕灯籠 妙心寺付近で
28 愛宕灯籠 桃山江戸町
27 愛宕灯籠 若一神社
25 愛宕灯籠 妙心寺北門を東
23 大覚寺門前 平成愛宕灯籠
20 大門橋 東 愛宕灯籠
19 山越えの愛宕灯籠
18 愛宕灯籠 西院坤町
17 愛宕灯篭 帷子ノ辻 南へ
16 愛宕灯篭 双ヶ岡
15 愛宕灯篭 花園駅 北へ
14 愛宕灯篭 妙心寺を西へ
10 愛宕灯篭 嵯峨駅南へ 嵐山近く 民家敷地にぎりぎり設置
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石柱は 地蔵尊 天満宮 跡 地
新舞鶴海兵団入団紀念 大正6年6月1日
超圓寺
慶長19年(1614)に再興された、浄土宗百万遍知恩寺を本山とする寺。現在、本堂に仮安置されている地蔵尊は世に「跡追地蔵」といわれ、昔から有名であった。
『拾遺都名所図会』によるとこの地蔵尊は初め江州(滋賀県)堅田の山門の別院に観音像とともに安置されていたが、元亀2年(1571)、織田信長と延暦寺の戦いのとき、蓮阿弥という僧兵が兵火によって寺が滅びるのを嘆き、観音像のみを笈の中に入れ、この地に移した。ところが堅田の農民 新左衛門の夢の中に地蔵尊が現れ、「われもまた京へ出て観世音とともに衆生を済度したい」といったのであわてて笈に入れ、当寺に移して崇め祀ったと記している。像は木彫、等身大の大きさ。超圓寺は江戸時代は洛陽48願所地蔵めぐりの第11番霊場として信仰された。
契をば結ぶ堅田の観世音 また立ち並ぶ跡追のかげ
と霊元法皇がよんだ御詠歌と伝わる。
説明は平成28年6月18日 追加
慈母観音
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寺院 前回の記事 ➡ 寺院西0085 福成寺 長岡京の鬼門除けの寺だった 臨済宗建仁寺派