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寺院西0125  勝持寺・花の寺  天台宗  西行

2016年06月30日 17時50分51秒 | 寺院

 

勝持寺(花の寺)

小塩山と号する天台宗の寺、境内に桜の木が多いので「花の寺」といわれている。

創建は、寺伝によると白鳳8年(680)天武天皇の勅により、役小角が創建した。その後、伝教大師最澄が比叡山の坤(西南)のこの地に霊感を感じ、薬師如来を安置し、

天台の道場とした。

はじめは小塩山大原寺と号したが、仁寿年間(851~54)仏陀上人(千観僧都)が文徳天皇の帰依を得て伽藍を再興し、名も大原院勝持寺と改め、大原野神社の別当寺とした。

足利尊氏は六波羅攻略にあたってたまたま当寺に立ち寄り、時の住僧から「勝持」としるした旗竿を献じられ、足利氏の庇護を得て、寺は隆盛した。

寺宝に足利将軍の古文書が多い。

応仁の乱で境内は荒廃した。天正11年(1583)青蓮院宮尊澄法親王は寺の再建をした。織田・豊臣も保護し、徳川桂昌院は崇仏の念あつく、堂宇の復興をした。

 

境内には西行手植えの桜があり、近江の守護大名佐々木道誉は花見をした。

細川幽斎も当寺で連歌を興行した。その時の懐紙が寺宝になっている。

 

仁王門の仁王像は京都市最古の仁王像とみられている。

弘安8年(1285)の銘がある。現在、収蔵庫に移されている。

西行桜、西行は世を捨ててのち当寺に入り、出家剃髪したといわれ、

その時に植えた桜と伝わる。

西行姿見の池・鏡石 鏡石は西行が剃髪に使ったものといわれています。

 

 

関連記事 ⇒ 京の通称寺  39ヶ寺

前回の 寺院の記事 ➡ 

      寺院西0124  宝菩提院願徳寺  国宝 菩薩半跏像 


まち歩き西0122  花の寺は左  右は 小塩山

2016年06月30日 11時38分43秒 | まち歩き

 

自転車のまち歩きでした  

登りがしんどい

道を間違うととんでもないところへ行きそうなので要注意

 

 

 まち歩き 前回の記事 ➡ 

       まち歩き西0121  大原野の昔風の民家  北春日町 


蔵のある風景西0251回   大原野 北春日町で

2016年06月30日 10時10分07秒 | 蔵のある風景

 

土壁の塀がこのあたりの雰囲気を表しているようです

 

蔵のある風景  前回の記事  ➡ 

          蔵のある風景0250回   大原野  九社神社 付近

 


寺院西0124  宝菩提院願徳寺  国宝 菩薩半跏像

2016年06月30日 08時11分26秒 | 寺院

平成30年11月15日の記事

平成29年4月12日 撮影

 

宝菩提院 当寺は山号を 仏華林山 宝菩提院 願徳寺とする天台宗の寺院である。

寺伝によると奈良時代の少し前、白鳳8年(679)に持統天皇の願いにより向日市寺戸に創建された寺院で、当時は1キロメートル四方に伽藍のある、天台密教の秘法を行う大寺院であった。

平安末期ごろ、平教盛の息忠快律師は平家没落後、東山三条小川にある願徳寺の寺領地に住房(小川殿)を建て、宝菩提院と号した。その弟子承澄は後嵯峨天皇の勅によって寺領を再興し、薬師・地蔵像を願徳寺に移したことから、宝菩提院とよばれるに至った。

応仁の乱と信長の兵火よより諸堂ことごとく灰燼となり、江戸時代に家康の加護を受けたものの、平安時代の面影は失われた。

昭和37年(1962)に寺戸よりこの地に移転、再建された。

本尊に祀られる国宝仏である如意輪観世音菩薩は、平安時代(794~1185)初期の御姿で、唐よりの渡来仏であるとする説、あるいは渡来人の作であるとする両説がある。

座り方は、踏み下げの像。左手は施無畏の印、生老病死の四苦から解放してくれるという。仏教の真理を現し、右手は与願の印で、願いをかなえてくれるという、現世利益を現す。寺宝として、薬師如来、青不動(軸)、太子2歳像などを蔵している。 京都市

 

 

2016年6月30日の記事

 

 

宝菩提院願徳寺

元は現在地の東方、向日市寺戸にあった天台宗寺院だが、昭和48年(1973)に勝持寺の隣に移転した。元は仏華林山願徳寺といい、持統天皇の夢告によって創建されたという。白鳳期だが寺跡の出土瓦によって証明されている。当時は広大な寺域を有していた。

本尊は貞観6年(864)に広隆寺に移された。

平敦盛の子の弟子の澄豪によって願徳寺に移した。

応仁の乱、信長の元亀2年(1571)の兵火によって諸堂が焼亡した。江戸時代、明治、昭和と荒廃がすすんだ。本尊菩薩半跏像と諸仏は昭和37年(1962)に向日市寺戸から勝持寺に移され、昭和48年(1973)に勝持寺の隣の現在地に再建された。本尊と諸仏は平成8年(1996)12月に勝持寺から現在の願徳寺本堂に収められた。

 

現在の寺になったのは つい最近のことだ

 

勝持寺は隣にあります 

関連記事  広隆寺  ➡ 

 寺院右0002  広隆寺 (こうりゅうじ)   「太子さん」とも言われている    

  寺院西0125  勝持寺・花の寺  天台宗  西行


寺院 前回の記事  ➡   寺院西0123  重保院  西山浄土宗   

 


神社西0053  千丈天満宮  

2016年06月30日 06時45分56秒 | 神社

 

享保9年(1724)北野天満宮の分霊を移し祀ると伝え明治9年村社に列せられる

 現在は千丈町の産土神社としてまた学問の神様として広く信仰されている

 

 

 弘化2年(1845)8月 建立

 

石鳥居のすぐ右手に記念碑がありました

 

千丈天満宮の記念碑

橋本伊助氏 氏は慶応3年9月9日安井父四郎氏の三男として此の地に生れ 明治24年京都市烏丸通綾小路上る水銀座町橋本家の養子となり孜々營々苦欫乏に耐へ家業に奮闘せらる 性磊落にして・も綿密周到なる氏は立志堅固遂に巨萬の富を築きて以て社會公共の為に貢献せらるゝ所不・時恰も 皇紀2600年を迎え恒に郷土愛に燃える氏は生誕の地通称千丈町の為に多額の資材を寄與せらる、我等町民感渋に堪へず、些か謝意を表し之れが記念の碑を建立し以て氏の・歴を記す

昭和15年10月9日  千丈町

 

 

なで牛

 

 

 

大東亜戦争記念 と記されています

 

昭和17年12月8日 

ちょうど太平洋戦争開戦日の1年後だ

 

拝殿と 本殿

 

菅公御神忌  1100年  

平成14年5月25日

 

奉納額

 

 

菅公御神忌  1100年

記念植樹 

 

 

本殿

 

本殿前の石灯籠

 

嘉永2年(1849)8月

 

本殿 の扁額

 

 

 

拝殿の中 

 

末社  北野天満宮 

 

なで牛

 

末社  天照大御神

 

拝殿と本殿

 

行事

 

神社 前回の記事  ➡  神社西0052  九社神社