アートプラス京めぐり

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神社上0048  桜宮神社  古い歴史があります  

2016年06月23日 21時16分26秒 | 神社

小さな神社です

桜宮神社

本社 天照皇大神、春日大神、稲荷大神、御嶽大神、金刀比羅宮、八幡大神、愛宕大神

摂社 宗像三姫大神(大弁財天)

今は去る醍醐天皇の御代(1094年前)延喜10年5月6日北野右近の馬場桜の大樹に紫雲異香薫り、日輪降臨あり、霊宮を造りて天照皇大神を祝祭し、桜宮日降の神明と号せしを始めとす。その後洛陽朱雀の北、近衛の小路(現在地)に遷、座され、当初は桜宮降神明と称され、又桜葉明神、桜宮とも称せられし宮なり。御白河天皇の御代(846年前)桜町中納言成範熱心に参詣し、悟りを得て歌を一首献上す。其の後足利将軍尊氏の長男、義詮(654年前)嗣子の無きを憂いて当社に祈り男子を授かる。鹿苑院義満公なり。義満、故に丁重に詣で、天下一統泰平を祈願せり。御奈良院の御代(470年前)織田信長の生まれし頃、痘疹疫病流行し、当社に祈りて病患を除かれし者多れり。

元禄7年(310年前)但馬の国の住人、荒木氏の妻、十有余年の難病にて苦しみ、此の社霊感あるを聞き、真心込めて祈願せし処、たちどころに感応利益あり、本復を得て拝殿を造営せり。

元禄16年11月16日、時の関白白太政大臣兼煕当社に参詣の折、当社の縁起を記し一巻を奉納せり。今、社宝として納められるは、その一巻なり。また神明町の町名も当社よりの命名なり。

謡曲右近に詳しく当社の由来を描かれ、山州名跡志にも「同所総門外通南北所是也」とあり、京都北野神社総門の外、南北に通ぜし通に桜葉明神社として祭られ、中昔此の地に移る。祭神は当初、天照皇大神を祀り、後世諸氏の信仰にて金刀比羅宮、春日大神、八幡大神、稲荷大神、愛宕大神、御嶽大神を合祀し、別社として大弁財天(宗像三姫大神)を境内に祀り、今の桜宮神社となれり。

平成17年3月  桜宮奉賛会 謹書

 

井戸 いい水が出そうです

 

 

 

南西の方向を見ています

 

いい水が湧くところなのか 隣は 豆腐屋さんです

 

神社 前回の記事 ➡  神社右0047  福王子神社  

 

 


神社西0046  三宮神社  

2016年06月23日 19時45分33秒 | 神社

 

石鳥居 、社号標  ともに 昭和55年7月建立

 

 

 

 

狛犬  昭和55年7月 建立

 

右から

玉依姫命

八幡神社

稲荷神社

春日神社

神社 前回の 記事 ➡  神社上0045  人気の晴明神社です  

 


寺院上0100  浄福寺2 赤門、違法建築 泣き龍、洛陽48願所で有名です  その弐 

2016年06月23日 16時29分07秒 | 寺院

いきなりですが、順番なので 墓所の入り口です

ここは、光格天皇 皇女 、禁裏餅御用 川端道喜、

香川景樹門下 歌人 柳原安子  らの墓所になっています

この石碑 明暦3年 (1658年) 建立です まあ、古い方ですね

 

井戸の横にある手水舎 天和元年 (1681年) こちらも そこそこ 古い

 

南門 から 右手にある 地蔵尊 背が高いです

 

  ここの建物は 赤門以外は 享保18年(1733年)の再建です

鐘楼は 1628年の再建

 

 平成28年6月21日 説明追加

寺院上0100 浄福寺

浄福寺は、浄土宗に属する寺院で、一般には「赤門寺」の名で親しまれている。創建・由緒は不明で、その後中世までは寺地を転々とし、元和元年(1615)に現在地に移ってきた。享保年間(1716~36)には鐘楼、南門を除く諸堂を焼失した。

 本堂は、享保16年(1731)から同18年にかけて再建されたものである。入母屋造の礼堂と寄棟造の仏殿を、両下げ造の合の間で接続した複合建築で、その変化に富んだ外観に特色がある。

本堂の東側には宝暦6年(1756)の再建になる三間堂の釈迦堂が建ち、また後方には玄関、享保19年の再建と伝える方丈が並んでいる。さらに、境内の南と東にはそれぞれ門が開き、南門の後方には鐘楼が建っている。鐘楼は寛永5年(1628)の再建、南門は17世紀前期の造営になり、共に享保の火災で焼失を免れたものである。東門は、江戸時代後期に現在の姿になったと考えられる4脚門で、全体に朱塗りが施されているところから「赤門」と呼ばれている。当寺の赤門寺という名称はこの門に由来する。

浄福寺の本堂以下一連の建物は、江戸時代中期における浄土宗寺院の伽藍配置及び建築形式をよく伝える貴重な遺構であり、昭和60年6月1日 京都市指定有形文化財に指定された。 京都市

玄関 

玄関 左側                 玄関 手前で

平成27年4月12日 撮影

 続きは 次回に

寺院 前回の記事 ➡  寺院上0099  正賢寺  真宗大谷派  

  


寺院上0096  回向院  浄土宗  画家 長沢芦雪(ろせつ)の墓所  

2016年06月23日 09時33分43秒 | 寺院

芦雪は1755年淀藩の生まれ、円山応挙の弟子となり優秀だった、動物の動的描写にすぐれ、天明・寛政年間で活躍しました。1799年亡くなる 45歳

石碑 芦雪の墓この寺にあり とある 明治時代の建立  大きな石碑だ

 1799年 土佐の山内侯の藩の御用絵師になることが決まり京を出て大阪の道頓堀で芝居を見た後、その夜急病で亡くなった。一説には妬まれ、出迎えの絵師に毒殺されたのではないかともいわれています。

 

右隣は 息子夫婦の墓とのことです

 

平成28年6月20日 追加

長沢芦雪 回向院

芦雪は夏目漱石の「草枕」にとりあげられている

芦雪は丹波の出身で山城淀藩の水夫目付(かこめつけ)の子に生まれ、応挙に弟子入りした。寛政2年(1790) 寛政禁裏造営のとき、御涼所の障壁に山水花鳥を描いた。大和の薬師寺、紀州草堂寺、三河正宗寺の障壁画、屏風画など大作に腕をふるった。また、3センチ四方の紙に肉眼で見分けられない五百羅漢を描くこともした。芦雪の落款は魚。奔放な性格と画風が芸州藩絵師のねたみを買い寛政11年6月8日、大阪で暗殺された。45歳。長沢家の墓所に子芦州、孫芦鳳の墓にかこまれ眠っている。本堂の内陣八畳敷きの天井いっぱいに大きな龍が描かれている。芦雪の作ともいわれているが、魚印がない。本堂は天明2年(1782)に建っていてつじつまはあうとのこと。

 

 

 前回の 寺院 記事  ➡  寺院上0095  慧光寺  日蓮宗  

 


地蔵尊西013  染殿地蔵  

2016年06月23日 06時47分07秒 | 地蔵尊

東からの 参道

 

 

北からの参道

 

堂前の石仏

 

 

木造地蔵菩薩坐像(染殿地蔵・腹帯地蔵)

像高215.0センチメートル1躯

本像は当地地蔵堂の本尊であり染殿地蔵とも呼ばれる丈六の巨像である。寄木造り彫眼の技法によって制作されておりかつては全体に朱が施されていたことが確認される。やや面長で脇を固く締め、衣文を浅彫りとする点は同じく丈六像である地蔵院(右京区花園)蔵「木造地蔵菩薩坐像」(11世紀初め、重要文化財)に酷似している。しかし左肩から腹部にかけての衣の波打ちや掌の上縁の堅い表現更には構造手法などから考えて

鎌倉時代(12世紀末~13世紀前半)に前代の様式を基本として製作されたものと考えられる。

近くの広見寺が管理されている。

地蔵尊は鎌倉時代の写実性に富んだ像である。

本像は丈六地蔵菩薩坐像の系列に属する数少ない一例でありまた丈六像しては唯一とも考えられる赤色着色像の貴重な類例として昭和60年6月1日京都市指定有形文化財として指定された。 京都市

 

腹帯地蔵安産地蔵子安地蔵と同じく産婦の安産を守護し給うという地蔵尊である。その姿は錫杖と宝珠をささけもつ点ではいずれも同じであるが、違っているのは、胸の下にもすそ(下衣)の結び目があって、あたかも腹帯を締めているようにみえることから、腹帯地蔵の名が生まれた。染殿皇后(文徳天皇皇后)が清和天皇の降誕に当たり安産祈願をしたという。付近に文徳天皇陵という古い伝承のある「天皇の杜古墳」あることによるらしい。染殿皇后は在世中、仏道に志あつく、京・奈良の40ケ寺に盛大な転読供養を営んだり、貧民に救恤したという仏教篤信者であったと伝わる。染殿地蔵は四条寺町、大原野の十輪寺にも染殿皇后が安産祈願のために造立したという同型の腹帯地蔵があり、

染殿皇后と地蔵信仰とは関係が深い。

 

 

 

 

関連記事  ➡   寺院右0019 地蔵院  律宗 花園 

                染殿院  四条寺町

                十輪寺

                文徳天皇陵  

             史跡  天皇の杜古墳    

             清和天皇陵 水尾山陵  

             廣見寺  浄土宗  

地蔵尊 前回の記事  ➡  地蔵尊右012   衣笠山麓の鎮めの地蔵尊 思わぬ発見です