アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

まち歩き西0113  竹の道  西京区・大枝  山陰街道付近

2016年06月25日 19時57分46秒 | まち歩き

道の両側から 竹が迫ってきます

 

見上げると こんな感じです

車が通らなければ 竹の雰囲気がたっぷり味わえそうですが

車は少ないですが通ります

竹の道  ➡    まち歩き伏0303  深草の竹林の道

まち歩き 前回の記事 ➡  まち歩き上0112  一条戻橋の話  (十三 ) 結婚するとき 京で有名な橋  

川柳

腰よりも 口につけたい 万歩計    /鈴木

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寺院西0117  地福寺  西山浄土宗

2016年06月25日 19時54分06秒 | 寺院

 

地福寺

文治2年(1186)法然上人の弟子花元上人が創建したとつたえる天林山と号する西山浄土宗の寺。本堂に安置する本尊阿弥陀如来坐像(平安時代)は一木彫、等身大、黒漆を塗った重厚味のある像。もと松尾の葉室山中にあった峰ケ堂の遺仏、あるいはそれより古い松尾山寺の関係の遺仏ともみられている

扁額は  天林山 と号されています

 

西側の道からの 入口

 

寺院の前回の 記事 ➡ 寺院上0116  浄圓寺  浄土宗 乾観世音第19番  新選組  花・ハナミズキ   


寺院西0115  天鏡院  高野山真言宗

2016年06月25日 15時50分11秒 | 寺院

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここで 火を焚く行事が行われるのでしょう

 

寺院 前回の記事 ➡  寺院上0114  観音寺 浄土宗  百叩きの門 よなき地蔵  千人堂   

 


寺院上0114  観音寺 浄土宗  百叩きの門 よなき地蔵  千人堂  文追加

2016年06月25日 05時43分42秒 | 寺院

出水の七不思議にあげられている寺です  浄土系の単立寺院

 

 

 

 

平成28年6月23日 説明追加

観音寺

慈眼山と号し、浄土宗に属する。慶長12年(1607)、梅林和尚が一条室町に創建した。その後、天明の京都大火に遭って、建物をはじめ記録を焼失してしまったので、正確な寺史は困難となっている。

伝えによれば、山門は旧桃山城の牢獄の門を移建したものといわれ、罪人を釈放するに当たってこの門前で百回たたいたと伝えられ、「百たたきの門」と呼ばれていた。そこで亡くなる者も多かった。それからは、夜観音寺の前を通ると、その門から人が苦しんでいるようなうめき声がきこえるようになった。寺の住職が成仏できるようにと念仏を唱えると、うめき声は聞こえなくなった。また。門の扉は楠の一枚板でできており、「出水の七不思議」の1つに数えられている。

境内の観音堂の本尊聖観音立像は運慶の弟子安阿弥の造顕といわれ、山名重氏の念持仏といい、堀川一条にあって1390年に疫癘を祈念し、霊験により死屍を蘇生させた。

延喜18年(918)に没した三善清行の葬送の時、その子の浄蔵貴所が佛神に祈って父を蘇生させたという、返り橋の名は戻り橋と呼ばれ、観音堂の信仰を集めて千人堂と称せられるようになった。慶長の頃に現地に移され、洛陽観音27番に数えられている。境内の「よなき地蔵」も著名である。京都市

 

これが 百叩きの門  出水の七不思議 になっています。伏見城の牢獄門を移築したもの。

その頃 都の治安は悪化し、牢獄はいっぱいになり、しかたなく軽い刑のものは、

牢獄に入れずにその門の前で百叩きにしてそのまま返すことにしたが、そこで亡くなるものも出た。

移築された観音寺の門の前を通ると人が苦しんでいるような声が聞こえるようになった。

そこで住職が念仏を唱えると、うめき声が聞こえなくなり、

その門は、人々から「百叩きの門」と呼ばれ、残されています。

 

 

 

右手に よなき地蔵尊  左手奥に 千人堂

 

千人堂  堂内の聖観音立像は 山名重氏の念持仏で、

もともと一条戻橋の畔にあり、

浄蔵貴所が祈って父を蘇生させた像と伝わっています

 

江戸期の洛陽三十三所観音  第二十七番  

 

 

こちらは よなき地蔵尊

 

 関連記事 ➡ 地蔵尊       

          人物025 安阿弥

 寺院 前回の記事  ➡  

寺院上0113  大雄寺 浄土宗黒谷派 松本見林・山中貞雄(映画監督)の墓所  文追加  

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石碑上0048  山崎 闇斎 (やまざき あんさい) 朱子学の第1人者  説明追加編集

2016年06月25日 05時36分38秒 | 石碑

生家 、塾のあったところ  桂昌院生家の菩提寺 真敬寺の向かい

 

 

 

山崎闇斎

元和4年(1618年)京都に生まれる 父は針医浄因 悪童ぶりに手を焼いた父は 7歳で比叡山に入り、15歳で妙心寺、絶蔵主と称していた19歳で土佐・吸江寺へ移る。そこで野中兼山谷時中らと知り合い、25歳で仏教より儒教を目指す

4年後 還俗し京へ帰る。30歳処女作「闢異」 38歳 講席を開く、41歳江戸へ行く。48歳 保科正之に招かれ以後寛文11年(1671)正之の死まで師として交わり、正之の幕政に影響を与える。 代表作「文会筆録」は朱子学史上特筆される書。

気性の激しさこそ、闇斎の本質、こうした彼の強烈な個性あればこそ名をとどめた。我が国の純正朱子学の確立者だといわれる。当時は仏教の補助的なものでしかなく、儒教がようやく独立した思想として扱われるようになるのは、江戸はじめ藤原とその弟子 林羅山をまってのことである。

彼の朱子学への没入ぶりは徹底していた。朱色の手ぬぐい、夏でも朱色の羽織を着る、書物の表紙は朱色。24、5歳頃は猛烈に勉強した。

講義は、ムチを机にたたきつけ大声を上げて彼の塾の峻烈さは伝説的です。門弟は6000人でした。彼の名分論にもとづく尊王主義が後に明治維新への思想的原動力となった。

墓所は 黒谷(金戒光明寺)享年65歳、

 

下御霊神社には闇斎を祀る垂加社がある。

下御霊神社の宮司は闇斎の弟子の子孫 資料を持っておられる

毎年2月22日に資料を公開している

 

関連記事 ➡  神社中0032  下御霊神社  無実の罪で非業の死を遂げた人たちを祀る 

石碑前回の記事 ➡  石碑上0047  聚楽第 上杉家・直江家屋敷跡  

 

 

 

 


寺院上0113  大雄寺 浄土宗黒谷派 松本見林・山中貞雄(映画監督)の墓所  文追加

2016年06月25日 05時34分44秒 | 寺院

1603年の創建

贈 従四位  松下見林翁墓   榊原胖天 再建立

大雄寺

雲竜山と号する浄土宗黒谷派の寺。慶長8年(1603)の創建。「前王廟陵記」「異称日本伝」の著作の近世の儒者松下見林の墓、映画監督として非凡な才能を持ちながら、惜しくも日華事変で戦没した山中貞雄の墓がある。

境内に小津安二郎が書いた山中貞雄の石碑がある

文 平成28年6月23日 追加

 

寺院 前回の記事 ➡  寺院上0112  勝福寺  浄土真宗本願寺派 

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