おほてはし
橋から 南方向を見る
富翁と書かれたあたりが 橋の南方左岸
西岸(右岸) 北側に石碑があります 濠川
石碑 坂本龍馬 避難の材木小屋跡
慶応2年(1866)1月24日未明、薩長同盟を締結した坂本龍馬が、長州藩の三吉慎蔵と寺田屋に潜んでいるところを伏見奉行配下の役人に取り囲まれました。風呂場にいたお龍が、不穏な気配を察知して2階の龍馬に危機を告げたので、龍馬はピストルで応戦。三吉は槍を構えて戦いましたが乱闘になり、龍馬は両手首を切られてしまいます。負傷した龍馬を肩に掛け、裏口の物置を抜けて、隣家の戸を破り小路に出て逃走した三吉は途中の寺に探索者がいるのに気づき、方向転換して川端の材木小屋を見つけて密かに忍び込み、龍馬をその小屋に置いて豪川沿いの伏見薩摩藩邸に駆け込みました。この事件の詳細は「三吉慎蔵日記」に記されており、龍馬が潜んだとされる西浜の材木小屋は豪川の左岸南方にあったといわれています。藩邸へはすでにお龍が知らせていたので、藩邸の留守居役の大山彦八は薩摩藩の旗印を掲げた船を出して龍馬を無事救助しました。龍馬の傷は深く、静脈も傷つき、翌日まで出血が止まらなかったと龍馬の手紙にも記されています。龍馬とお龍は1月29日まで伏見薩摩藩邸に滞在し、約1ケ月後に西郷隆盛らとともに薩摩藩の蒸気船三邦丸に乗船し鹿児島へ向かい、傷の治療をかねて霧島温泉に向かいます。これが、後に日本で最初の新婚旅行といわれています。
※ 坂本龍馬避難の材木小屋はこの石碑の建つ川の右岸より橋を東に渡った川の左岸南方の辺りにあったと伝えられています。
東方面を見る
石碑 前回の記事 ➡ 石碑伏0096 角倉了以翁水利紀功碑
川柳
いつまでも子機を無線というばあちゃん /光る塩
ことわざ
挙げ句の果て(あげくのはて)
連歌ではじめの句を発句、最後の句を挙げ句ということから、物事の最後のこと。「揚げ句の果て」とも書く。
注・さまざまなことをしたが、結局悪い方向へ進んでしまった場合に用いることば。良い結果になった場合には使われない。
類・とどのつまり
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