ポスター 前回の記事 ➡ ポスター0051 剣神社 三疳封じ火焚祭 子供の守護神 11月3日 済んでしまったが
川柳
どつかれるほうもおんなじギャラですか /若草
ことわざ
頭押さえりゃ尻ゃ上がる(あたまおさえりゃしりゃあがる)
一方を押さえれば、もう一方が上がるという意味から、両方そろってうまくいくことは難しいというたとえ。
類・彼方立てれば此方がたたぬ
・右を踏めば左が上がる
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頭押さえりゃ尻ゃ上がる(あたまおさえりゃしりゃあがる)
一方を押さえれば、もう一方が上がるという意味から、両方そろってうまくいくことは難しいというたとえ。
類・彼方立てれば此方がたたぬ
・右を踏めば左が上がる
京都市伏見区西大手町336
隣にある 観音堂
伏見 柳谷観世音菩薩
寺院前回の記事 ➡ 寺院伏0321 西岸寺 浄土宗 油掛地蔵尊 芭蕉句碑
川柳
団塊へチョッと意地悪したい古希 /幹無利
ことわざ
徒花に実はならぬ(あだばなにみはならぬ)
「徒花」は、咲いても実を結ばない花。見かけは立派でも、中身、実質が伴わなければよい結果に結びつかないということ
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京都市伏見区下油掛町898
俗に「油掛地蔵」という。旧伏見町でもっともよく知られた寺で、町名もこれに因んで油掛町という。当寺は天正18年(1590)雲海上人よよって創建された浄土宗知恩院派の寺で、油掛山地蔵院と号する。もとは阿弥陀仏を本尊としていたが、鳥羽伏見の戦に堂宇を焼失し、今は昭和53年再建された。地蔵尊を安置した地蔵堂だけとなっている。地蔵堂再建のとき、京都府が地蔵尊の調査を申し入れたが、檀家の人たちが、「油層は先祖の信仰の積み重ね。削り取られるのはかなわん」と断ったいきさつがある。寺では、参拝者の為に1ケ月の5~7リットルの植物油を用意する。
商家を中心に根強い信仰がある。
芭蕉の句
油懸山地蔵院西岸寺と号する浄土宗の寺で、天正18年(1590)雲海上人によって創建された。地蔵堂には、俗に油懸地蔵と呼ばれる石仏の地蔵尊が安置されている。寺伝によれば、昔、山崎(乙訓郡)の油商人が門前で転び、この地蔵尊にこぼした油の残りを灌いで供養し行商に出たところ、商売が大いに栄えたといわれ、以後、この地蔵尊に油をかけて祈願すれば願いがかなうとして、人々の信仰を集めている。
境内には「我衣にふしみの桃のいづくせよ 芭蕉」と自然石に刻まれた句碑がある。これは、貞享2年(1685)、当寺の第3世住職任口(宝誉)上人を訪ねた芭蕉が、上人の高徳を当時の伏見の名物であった桃に事寄せて、その徳に浴したいと願って詠じたもので、碑は文化2年(1805)に建設された。なお、地蔵堂は、明治維新の鳥羽伏見の戦いで類焼したため、明治27年(1894)に一度再建された。現在の地蔵堂は、その後、昭和53年(1978)に再び建立されたものである。京都市
浄土宗のお寺で、油懸地蔵院西岸寺といいます。天正18年(1590)雲海上人によって創建されました。通称「油懸地蔵」として有名で、町名の油掛町も「油懸地蔵」に由来します。
寺伝によれば、昔、乙訓郡山崎の油商人が当寺の門前で油桶を流してしまい、諦めて残りの油を地蔵尊に注いでそのまま立ち去ったのです。その後、商人は商運に恵まれ大金持ちになったといいます。それ以来、願いごとがある人は油を注いで祈ると霊験があるといわれ、人々の信仰を集めました。
お地蔵さんは石の仏さまで、立ち姿が浮き出るよう彫刻され、右手には錫杖、左手に宝珠を持っています。お顔が美しく、なで肩、大きな胸あきの彫法、錫の部分の大きく立派なことなどから、鎌倉時代の作と言われています。銘文が刻まれているようですが、昔から油を掛けて祈願され、油が2㎝も厚く積り、調べようがありません。境内には、芭蕉が当寺3世任口上人を訪ねた折に詠んだ句の碑もあります。
地蔵尊は伏見天皇・正親町天皇の御信仰篤く、正應3年(1290)不思議の霊験ありしにより、文保元年(1317)伏見院別院御殿(当山の現在地)を下賜せられ、地蔵院の称号を賜った。
油掛地蔵尊の起こりは往昔山崎(乙訓郡)の油商人が、この地蔵尊の門前で転び油桶を落とし油を流してしまった。たいせつな油を失って落胆したが、残った油を地蔵尊にかけて行商に出たところ大いに栄え店は繁昌した。以来、油をかけて祈願すれば願望成就すると信仰され、油掛地蔵尊と称するようになった。地蔵尊は石仏で高さ72.2㎝、幅80㎝の花崗岩の表面に、像高1.27m(立像)を厚肉彫にしたもので、右手に錫杖、左手には宝珠を捧げている。地蔵尊の造立は鎌倉時代といわれている。 西岸寺
地蔵石仏(鎌倉時代)は高さ1.5m、幅80㎝の花崗岩の表面に地蔵立像を厚肉彫りとし、右手に錫杖、左手に宝珠をもっている。表面が油で汚れてよく分からないが、鎌倉時代のものである。昔の書物によれば、むかし乙訓山崎の油商人があやまって当寺の門前で油桶をころがし、油を流してしまった。しばらく茫然としていたが、これも運命とあきらめ残りの油を地蔵尊にそそいで立ち去った。このことがあってから逆に商運にめぐまれ、のちに大金持ちになったという。それより祈願あるものは、油をそそいで祈ると霊験があるといわれ、世の信仰をあつめた。嵯峨の油掛地蔵とともに、京都市のおける特異な地蔵信仰の1つです。
芭蕉翁塚・任口上人
我衣にふしみの桃の雲せよ
貞享2年(1685)任口(宝誉)上人の高徳を慕ってたずねた芭蕉が出会の喜びを当時伏見の名物であった桃にことよせて「我家にふしみの桃の雫せよ」と詠じたもので「野ざらし紀行」には「伏見西岸寺任口上人にあふて」と前書がある。碑は文化2年(1805)の建立である。
任口上人は当山の3世住職。重頼門下の俳人。法名は如羊と称して、宗因に連歌・維舟に俳諧を手ほどきし、晩年、談林の長老として慕われた。当山に訪れる客は多く西鶴や其角、玖也、季吟 意 らの当時の著名な俳人も多く足をとめた。任口上人は、貞享3年(1681)81歳で示寂し、当山墓地に祀られている。西岸寺
芭蕉句碑
は自然石の表面に
我衣にふしみの桃のしづくせよ 芭蕉
としるす。
芭蕉は貞享2年(1685)花洛遊歴の途次、当寺の任口上人を訪ねたが、この句は上人との再会をよろこんだ芭蕉が上人を伏見の桃に擬し、桃がころもの袖をうるおすように、上人の徳化が身におよんでほしいという意味をこめ、上人への挨拶とした。因みに任口上人は北村季吟の門下で如羊と号し、芭蕉とは同門とつたえ、今なお境内墓地には上人の墓がある
嵯峨の油掛地蔵尊 ➡ 地蔵右003 大覚寺油掛地蔵尊 嵯峨の地で
芭蕉の句碑 ➡ 上御霊神社 6月9日 更新しました
寺院 前回の 記事 ➡ 寺院伏0320 西教寺 浄土真宗本願寺派
川柳
人間の評価ではないお給料 /よねづ
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