今熊野橋
昭和3年10月竣功
橋の下は 東海道線 東方向を見る
新幹線はすでに西方向(写真の右後ろ方向)でトンネルの中
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き東0370 お地蔵さん
五七五
駐車したその1台に泣く千台 /式野
ことわざ
雨夜の月(あまよのつき)
雨の降る夜でも月はある。あるにはあっても、目には見えないもの。実際には見られない物事のたとえ。
類・雨夜の星
下のユーザー地図で京都の記事探索が出来ます。試してみてください
今熊野橋
昭和3年10月竣功
橋の下は 東海道線 東方向を見る
新幹線はすでに西方向(写真の右後ろ方向)でトンネルの中
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き東0370 お地蔵さん
五七五
駐車したその1台に泣く千台 /式野
ことわざ
雨夜の月(あまよのつき)
雨の降る夜でも月はある。あるにはあっても、目には見えないもの。実際には見られない物事のたとえ。
類・雨夜の星
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伏見街道
本町通は東福寺の門前通りをいい、北は五条通(東山区)より南は稲荷(伏見区)までの約2.8キロ間を一丁目から22丁目までの町名をもって数えられる。稲荷より南は直違橋通とよび、伏見を経て国道24号線につながる。
この道は京都と伏見をつなぐ交通路に当たるので、伏見街道とよび、また泉涌寺門前の五葉の辻に至って断絶する大和大路通を引き継いでいるので、大和大路ともいわれるが、今はこの名はあまり用いられない。
本町通は豊臣秀吉が大仏方広寺を建立した天正14年(1586)の翌年から文禄3年(1594)のあいだにわたって造られたものといわれ、伏見城の完成とともに軍事的にも政治的にも重要な道路となり、また伏見港に陸揚げされた京都市民の生活物資の輸送路ともなった。
とくに沿道には東福寺をはじめ三十三間堂や稲荷神社等、著名な社寺が多いため、近世に於ける京都の主要な観光ルートともなった。沿道には煙管、大工道具、楊枝、摺火打、竹杖、土人形、地黄煎、つくわ、鉄砲火縄、撞木、竹笠など、往時の庶民生活に必要な物品を取り扱う店舗が軒をならべていた。
一の橋 ➡ まち歩き東0374 伏水街道 第一橋
一の橋跡 ➡ 石碑東0104 伏水街道 一之橋 旧址
二の橋 ➡ まち歩き東0368 伏水街道 第二橋 親柱
三の橋 ➡ まち歩き東0381 伏水街道 第三橋
四の橋 ➡ まち歩き伏0389 伏水街道 第4橋
五七五
そうめんはもらうものだと決めている /中林
ことわざ
雨垂れ石をも穿つ(あまだれいしをもうがつ)
雨垂れも、長年にわたって石に落ちれば石に穴をあけるという意味から、わずかな力でも、根気よく続けることによって事が成就いるということ。
類・愚公山を移す
・泰山の溜石を穿つ
・釣瓶縄井桁を断つ
・人跡繁ければ山も窪む
・牛の歩みも千里
かつて、この地に夢の浮橋が掛かっていた。この橋は、四条天皇をはじめ、歴代天皇、后妃等の墓所が多い泉涌寺に詣でる本道に架けられた橋であり、古くから大路橋若しくは落橋と呼ばれていた。夢の浮橋という名は、源氏物語・宇治十帖の「夢の浮橋」の名に因み、この娑婆世界に無常の様が、夢のごとく、また浪に漂う浮橋のごとく、はかないものでるという例えからとったと伝えられている。川の流れは泉涌寺の後ろの山から出て、今熊野の南を巡り、更に一の橋の下を流れて鴨川に入るが、今は暗渠となり橋は取りはずされている。京都市
ことはりや夢の浮橋心して還らぬ御幸しば止しめむ
橋はもと長さ8.2m 6.3mの木造橋であったが、川を暗渠としてからは取りはらわれ、擬宝珠勾欄の一部が路傍に保存されていたが、現在はそれも撤去され、代わりに泉涌寺長老道円が詠んだ歌碑が建っている。
ことはりや夢の浮橋心して還らぬ御幸しば止しめむ
この橋を一に落橋といわれるのは、天子葬送のときのみに架橋され、普段は腐朽するとも改修されなかったからであり、世人はむしろ天子長久を願って橋の用をなさないことを望んでいたという。応永32年(1425)7月、中山定親は泉涌寺参詣に際し、落橋が破損して渡ることができず、やむなく橋の西にて下車した旨をその日記にしるしているので、室町時代の頃から落橋とよばれていた。
史跡 前回の記事 ➡ 史跡伏019 寺田屋 坂本龍馬ゆかりの宿
五七五
次は犬飼うを聞いているヒザの猫 /森本
ことわざ
油を売る(あぶらをうる)
仕事中に時間をつぶしてけること、また仕事中に長々とむだ話をすることをいう。
用・「いつまでも油を売ってないで、早く職場に戻れ」
知・江戸時代の油売りが客の容器に油を移すのに時間がかかったことから、髪油を売り歩く商人が婦女を相手にのんびりと話し込みながら商売したことからともいわれる。
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昔風の家があります その隣
大日如来 は 判読できます
明治 二十一年だろうか 判読 しにくい
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き東0369 謎の石柱が置かれている 何か書かれている
五七五
安すぎてリストラ対象外された /ゆうしゅん
ことわざ
油に水(あぶらにみず)
油に水を入れると分離してしまうことから、異質なためにしっくりとなじまないこと。融和しないこと。
用途・「君と彼では油に水だから、チームは組めないよ」
類・油に水のまじる如し
・水と油
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京都市東山区本町10-167
閻魔山 浄心寺
浄土宗西山派の寺であるが、天台宗妙法院にも属している。寺伝によれば、はじめ弘法大師作の閻魔王像を本尊としていたのに因んで閻魔山と号していたが、応仁文明の乱の兵火に罹災し、像は東寺へ移されてしまった。室町時代に月峰上人が寺の再興に当たって返還を求めたが、東寺は容易に応じず、代わりに他の仏像三体を渡した。これが現在の本尊阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)と脇侍の大日如来坐像(平安時代)・地蔵半跏像(鎌倉時代)と伝わり、いずれも古様をおびた像である。
三尊仏のうち、阿弥陀像は高さ86.3㎝、寄木造り、定印をむすんで結跏趺座する。顔容は優艶にして衣文の線はやわらかく、「院派」といわれる京都の仏師の伝統的な作風があり、いわゆる平安様式をただよわせた鎌倉初期の作と推定される。大日如来像は高さ87.3㎝、一木彫り、密教彫刻の様式をもった威厳のある顔容を呈し、内部のくり抜きの荒いことから平安中期の作とみられる。また、地蔵菩薩像は右足を組み、左足を下におろした半跏像で、高さ1.13m、寄木造り、彩色像。衣文のひだの線の力強い彫り方や内部のくり抜きの深いことから鎌倉後期の作とみられる。
因みに元禄年間(1688~1704)妙法院獅子吼院宮は当時の住持淵竜上人にふかく帰依し、三尊仏の灯油代として付近の菅谷畑を寄進されたという。東寺がこのような勝れた仏像を手放したのには、わけがあったのだろうと思われる。
寺院 前回の記事 ➡ 寺院東0326 寶樹寺 浄土宗
五七五
フロで歌窓の外から拍手くる /イリコ
ことわざ
脂に画き氷に鏤む(あぶらにかきこおりにちりばむ)
脂肪のかたまりに絵を描いたり、氷に彫刻をしても、すぐ消え失せてしまうことから、実体のはっきりしないものに向かって苦労しても甲斐がないこと。骨折り損の意。
類・氷に鏤め水に描く
・水に絵を描く
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