近畿というのは、兎にも角にも、盛り沢山な場所です。
人の営みが積み重ねられた街の文化も素晴らしいのですが、大地から醸し出される風土というのも
また格別なものです。
これは実際に肌で触れてみて、全身の毛穴で感じられるものです。
知らない土地でそうしたものがスーッと入ってくると本当にワクワクします。
近畿には、大阪や京都、奈良といった有名どころもありますが、土地としての凄いエネルギーを感じる
場所が数多くあります。
琵琶湖周辺や淡路島もそうですが、何より紀伊半島が群を抜いてます。
行政上は奈良や和歌山あるいは三重というような分け方をされていますが、そうではなく地理的に見て
の紀伊半島です。
奈良の南部、和歌山、三重の一部を含むあたりのエリアになります。
なかでも紀伊の真ん中あたりとなると、もはや破壊力抜群としか言えません。
近畿は文化の面だけでなく、土地的に本当に奥深いところです。
いや、地理的風土が濃厚であればこそ、文化も深まったということなのでしょう。
何故これほど近い距離に、これだけのものが密集しているのか驚くばかりです。
近畿というエリアは、この国の端から端、北方領土から八重山まで結んだ真ん中に位置しています。
この列島を一つの体として見た時の中心です。
人間でいう丹田。腹。肚。
その日本全体をドームのように包む、白く透明な霧状のモヤモヤを感じますが、これがこの国の氣なの
でしょう。
その国魂のエネルギーを強く感じるのが紀伊半島です。
ちなみに、ヘソは富士山ということになります。
地球の大地のエネルギーが天に向けて、そして天の宇宙のエネルギーが地に向けて、繋がっていると
感じます。
大阪に来る前は、漠然と東京が日本の中心だと思っていましたが、それは経済の流れや人の心の向き
がそうだというだけで、国土の氣としてはそうではなかったということでしょう。
身体に喩えるなら、東京は頭ということになるのかもしれません。
あれこれ考える、思考の中心ということです。
そして近畿が肚。
魂の収まるところです。
タツノオトシゴのお腹を想像して頂くと分かりやすいかもしれません。
ウロコがザラザラしてプックリと膨らんでいる、あれです。
紀伊半島は、海岸線から一気に吹き上げるように険しい山々が連なっています。
半島そのものがプックリしてて、ツンツン、トゲトゲしてます。
これは龍体の肚。ウロコ腹です。
それは見た目とか、理屈の話ではありません。
その肚の中に入れば、どなたでも分かる(=感じる)と思います。
そうした感覚が、全身の皮膚から白い霧のように入り込んできます。
最初にネタばらしをしてしまったので説得力が乏しくなりますが、実際は何も考えずにアチコチ歩いて
いたわけでして、その最中はビシバシ全身逆立つ感覚に包まれ続けて、そちらで手一杯でした。
ホウホウのていで逃げ帰りながら、その途中ハタと、龍の腹と感じたのでした。
もともと畏れ多い場所だとビビって避けてきたわけですが、国土の雷同とともに縁あって今年になって
初めて入らせて頂きました。
そういう意味では、熊野三山は身体もリラックスできて平和な場所でしたが、玉置神社周辺や天川村の
洞川近辺になると全くの異次元でした。
言葉で表現するならば、冷たく透明な霧というか、ピリピリと張り詰めるような空気感です。
この世の感覚ではなく、狭間の世界です。
それは荘厳な山の氣とも言えますし、大地の本来の姿が剥き出しになった姿とも言えますし、列島大地
の清浄かつパワフルなエネルギーだとも言えます。
弘法大師があの時代、わざわざ京から遠く離れた高野山の下賜を天皇に請願されたのもそうした理由
にあったのかもしれません。
玉置山、大峰山、高野山、これら三ヶ所はまさに紀伊半島の真ん中にあります。
そして熊野古道の奥駈け道は、その肚のド真ん中を貫く道です。
その道の途中には、本当に恐ろしい蔵王権現が鎮座しておられます。
恐ろしいというのは、畏れ(おそれ)という意味での怖さです。
蔵王権現は国常立様の化身と感じていましたが、地球の化身と聞いて大納得です。
そもそも紀伊半島や熊野一体が「ジ・アース」なのですから。
その中心に真っ青な憤怒の姿が顕現するというのは、当然すぎるほどに当然のことだと思います。
腹の底から突き上げるような超弩級のエネルギーというのが、憤怒の姿で表現されるのも納得です。
紀伊の奥山のビシビシとくる氣に溢れた中に身を置き続けると、そうそう!まさにこれ!と、誰しも
思うことでしょう。
何年か前に初めて紀伊半島の海岸を走った時には、数十億年前の生命誕生前の地球の姿が脳裏に
浮かびました。
太古の地球。創成期の地球のフツフツと煮えたぎる大地のエネルギーがそこにありました。
その時は畏れ多くて、肚のほうは避けながら海岸線だけを走り抜けましたが、今回そこから内の方へ
入ってみますと、パワースポットなどという表現がいかに平和かと思うほどに、シャレのなさを感じる
わけです。
決して興味本位で行ってはいけない場所だと思います。
ピリピリするほど命の緊張を感じました。
その激烈エリアを駆け抜けようと古人が思ったのも、それだけ決死の覚悟があったからです。
この天地のなかに生きることに真剣だったのです。
それは「天地人」という生き方です。
その三位一体を求めて、自らの感性と衝動に忠実だったということだと思います。
そうして、その延長に都が造られました。
飛鳥から藤原京、平城京、平安京と、全てがこの奥駈け道の縦のラインに繋がっています。
国の魂がおさまる肚から、ヘソの緒で繋がっている感じです。
日本の国の魂は、大地の魂、地球の魂と繋がっています。
ここは「天・地」の「地」であるわけです。
そうなると、やはり天皇陛下は、ここにおさまるのが自然ということでしょう。
天地人のバランスからして、間違いなくここで国が定まり、世界が定まると思います。
国民の中心が、国土の中心におさまるのです。
あるがままのバランスにより自ずと中心が決まってくることことを「鎮まる」といいます。
文明開化以降、これまで私たちは頭で生きる時代を過ごしてきましたが、これからは思考や価値
判断に囚われず、心と身体を臍下で一致させ、自分の中心を通して天地自然に心を広げる時代に
なることでしょう。
そうだとすれば、同じようにこの国の中心となる場所もまた、頭から臍下へと移り変わっていくの
かもしれません。
ところで面白いことに、同じ紀伊半島なのに、その内側と外側では山の様相が全く異なります。
海岸側から走っていきますと、それまで見なれた山の景色が続いていたのに、その山を越えると
いきなり豹変します。
肚の内に入ると、空気が一変するだけでなく、山そのものの形まで変わるのです。
この肚があればこそ、国は永久(とこしえ)に立てられるわけです。
古人が、この地に国常立様を感得したのは全く自然なことです。
いま地球の雷同が、この列島の雷同となって現れています。
国常立様は地球神であり、大地の神様であります。
そして、そこへと連なる、土地土地の神様として氏神様がいらっしゃいます。
そして私たち人間は、天と地の中心点です。
囚われやこだわり、思い込みを霧散させて、天地の循環をスムーズにするのが私たちの存在理由
です。
そのためには、謙虚に素直になって、天と地へ感謝のこころを向けるのみです。
聖書には、私たちの身体は土から創られたと書かれていますが、これは霊的には正しいと思います。
私たちがこの世に存在させて頂いている借り物は、大地・地球の分身です。
私たちとは、天の分け御魂であり、地の分け御身なのです。
そこに自らを投影させて私たちは日々を、文字通り、「体験」しています。
私たちの中心に心柱が立つというのは、その柱によって天地と直結するということです。
私たちが自身に柱を立てることと、国が常しえに立てられることと、地球に心柱が通ることは、全て
同じ一つのことです。
天地とは、私たち自身です。
心を広げて重なり合わされば、自ずと手を合わせる気持ちになるのではないかと思います。
そのことが分かれば、何が起きようとも感謝の心は変わらないはずです。
決して辛気くさい話ではなく、浮わついた綺麗ごとでもなく、太古の昔から私たち日本人は自然なことを
自然にやってきました。
天地が雷同しようとも穏やかであろうとも、私たちが為すべきは、変わりなく一つです。
今この瞬間を、心清らかに、明るく、楽しく、無邪気に楽しみましょう。
そして日々の当たり前とお蔭さまに感謝をして、ご先祖様と氏神様に手を合わせましょう。
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人の営みが積み重ねられた街の文化も素晴らしいのですが、大地から醸し出される風土というのも
また格別なものです。
これは実際に肌で触れてみて、全身の毛穴で感じられるものです。
知らない土地でそうしたものがスーッと入ってくると本当にワクワクします。
近畿には、大阪や京都、奈良といった有名どころもありますが、土地としての凄いエネルギーを感じる
場所が数多くあります。
琵琶湖周辺や淡路島もそうですが、何より紀伊半島が群を抜いてます。
行政上は奈良や和歌山あるいは三重というような分け方をされていますが、そうではなく地理的に見て
の紀伊半島です。
奈良の南部、和歌山、三重の一部を含むあたりのエリアになります。
なかでも紀伊の真ん中あたりとなると、もはや破壊力抜群としか言えません。
近畿は文化の面だけでなく、土地的に本当に奥深いところです。
いや、地理的風土が濃厚であればこそ、文化も深まったということなのでしょう。
何故これほど近い距離に、これだけのものが密集しているのか驚くばかりです。
近畿というエリアは、この国の端から端、北方領土から八重山まで結んだ真ん中に位置しています。
この列島を一つの体として見た時の中心です。
人間でいう丹田。腹。肚。
その日本全体をドームのように包む、白く透明な霧状のモヤモヤを感じますが、これがこの国の氣なの
でしょう。
その国魂のエネルギーを強く感じるのが紀伊半島です。
ちなみに、ヘソは富士山ということになります。
地球の大地のエネルギーが天に向けて、そして天の宇宙のエネルギーが地に向けて、繋がっていると
感じます。
大阪に来る前は、漠然と東京が日本の中心だと思っていましたが、それは経済の流れや人の心の向き
がそうだというだけで、国土の氣としてはそうではなかったということでしょう。
身体に喩えるなら、東京は頭ということになるのかもしれません。
あれこれ考える、思考の中心ということです。
そして近畿が肚。
魂の収まるところです。
タツノオトシゴのお腹を想像して頂くと分かりやすいかもしれません。
ウロコがザラザラしてプックリと膨らんでいる、あれです。
紀伊半島は、海岸線から一気に吹き上げるように険しい山々が連なっています。
半島そのものがプックリしてて、ツンツン、トゲトゲしてます。
これは龍体の肚。ウロコ腹です。
それは見た目とか、理屈の話ではありません。
その肚の中に入れば、どなたでも分かる(=感じる)と思います。
そうした感覚が、全身の皮膚から白い霧のように入り込んできます。
最初にネタばらしをしてしまったので説得力が乏しくなりますが、実際は何も考えずにアチコチ歩いて
いたわけでして、その最中はビシバシ全身逆立つ感覚に包まれ続けて、そちらで手一杯でした。
ホウホウのていで逃げ帰りながら、その途中ハタと、龍の腹と感じたのでした。
もともと畏れ多い場所だとビビって避けてきたわけですが、国土の雷同とともに縁あって今年になって
初めて入らせて頂きました。
そういう意味では、熊野三山は身体もリラックスできて平和な場所でしたが、玉置神社周辺や天川村の
洞川近辺になると全くの異次元でした。
言葉で表現するならば、冷たく透明な霧というか、ピリピリと張り詰めるような空気感です。
この世の感覚ではなく、狭間の世界です。
それは荘厳な山の氣とも言えますし、大地の本来の姿が剥き出しになった姿とも言えますし、列島大地
の清浄かつパワフルなエネルギーだとも言えます。
弘法大師があの時代、わざわざ京から遠く離れた高野山の下賜を天皇に請願されたのもそうした理由
にあったのかもしれません。
玉置山、大峰山、高野山、これら三ヶ所はまさに紀伊半島の真ん中にあります。
そして熊野古道の奥駈け道は、その肚のド真ん中を貫く道です。
その道の途中には、本当に恐ろしい蔵王権現が鎮座しておられます。
恐ろしいというのは、畏れ(おそれ)という意味での怖さです。
蔵王権現は国常立様の化身と感じていましたが、地球の化身と聞いて大納得です。
そもそも紀伊半島や熊野一体が「ジ・アース」なのですから。
その中心に真っ青な憤怒の姿が顕現するというのは、当然すぎるほどに当然のことだと思います。
腹の底から突き上げるような超弩級のエネルギーというのが、憤怒の姿で表現されるのも納得です。
紀伊の奥山のビシビシとくる氣に溢れた中に身を置き続けると、そうそう!まさにこれ!と、誰しも
思うことでしょう。
何年か前に初めて紀伊半島の海岸を走った時には、数十億年前の生命誕生前の地球の姿が脳裏に
浮かびました。
太古の地球。創成期の地球のフツフツと煮えたぎる大地のエネルギーがそこにありました。
その時は畏れ多くて、肚のほうは避けながら海岸線だけを走り抜けましたが、今回そこから内の方へ
入ってみますと、パワースポットなどという表現がいかに平和かと思うほどに、シャレのなさを感じる
わけです。
決して興味本位で行ってはいけない場所だと思います。
ピリピリするほど命の緊張を感じました。
その激烈エリアを駆け抜けようと古人が思ったのも、それだけ決死の覚悟があったからです。
この天地のなかに生きることに真剣だったのです。
それは「天地人」という生き方です。
その三位一体を求めて、自らの感性と衝動に忠実だったということだと思います。
そうして、その延長に都が造られました。
飛鳥から藤原京、平城京、平安京と、全てがこの奥駈け道の縦のラインに繋がっています。
国の魂がおさまる肚から、ヘソの緒で繋がっている感じです。
日本の国の魂は、大地の魂、地球の魂と繋がっています。
ここは「天・地」の「地」であるわけです。
そうなると、やはり天皇陛下は、ここにおさまるのが自然ということでしょう。
天地人のバランスからして、間違いなくここで国が定まり、世界が定まると思います。
国民の中心が、国土の中心におさまるのです。
あるがままのバランスにより自ずと中心が決まってくることことを「鎮まる」といいます。
文明開化以降、これまで私たちは頭で生きる時代を過ごしてきましたが、これからは思考や価値
判断に囚われず、心と身体を臍下で一致させ、自分の中心を通して天地自然に心を広げる時代に
なることでしょう。
そうだとすれば、同じようにこの国の中心となる場所もまた、頭から臍下へと移り変わっていくの
かもしれません。
ところで面白いことに、同じ紀伊半島なのに、その内側と外側では山の様相が全く異なります。
海岸側から走っていきますと、それまで見なれた山の景色が続いていたのに、その山を越えると
いきなり豹変します。
肚の内に入ると、空気が一変するだけでなく、山そのものの形まで変わるのです。
この肚があればこそ、国は永久(とこしえ)に立てられるわけです。
古人が、この地に国常立様を感得したのは全く自然なことです。
いま地球の雷同が、この列島の雷同となって現れています。
国常立様は地球神であり、大地の神様であります。
そして、そこへと連なる、土地土地の神様として氏神様がいらっしゃいます。
そして私たち人間は、天と地の中心点です。
囚われやこだわり、思い込みを霧散させて、天地の循環をスムーズにするのが私たちの存在理由
です。
そのためには、謙虚に素直になって、天と地へ感謝のこころを向けるのみです。
聖書には、私たちの身体は土から創られたと書かれていますが、これは霊的には正しいと思います。
私たちがこの世に存在させて頂いている借り物は、大地・地球の分身です。
私たちとは、天の分け御魂であり、地の分け御身なのです。
そこに自らを投影させて私たちは日々を、文字通り、「体験」しています。
私たちの中心に心柱が立つというのは、その柱によって天地と直結するということです。
私たちが自身に柱を立てることと、国が常しえに立てられることと、地球に心柱が通ることは、全て
同じ一つのことです。
天地とは、私たち自身です。
心を広げて重なり合わされば、自ずと手を合わせる気持ちになるのではないかと思います。
そのことが分かれば、何が起きようとも感謝の心は変わらないはずです。
決して辛気くさい話ではなく、浮わついた綺麗ごとでもなく、太古の昔から私たち日本人は自然なことを
自然にやってきました。
天地が雷同しようとも穏やかであろうとも、私たちが為すべきは、変わりなく一つです。
今この瞬間を、心清らかに、明るく、楽しく、無邪気に楽しみましょう。
そして日々の当たり前とお蔭さまに感謝をして、ご先祖様と氏神様に手を合わせましょう。
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