ゴールデンウィークの渋滞は相変わらず凄いものがありました。
とはいえ同じ渋滞でも、目的地へ向かう時ならばモチベーションも高く、どこか寄り道でもしながら気長に行こうという気持ちになります。
一方、それが帰りとなると寄り道なんて余裕はなくなりまして、渋滞をいかに回避するかで頭が一杯になります。
こうしたことは、私たちの人生にも通じるところがあります。
子どもの頃は将来なんてまるで未知数でしたから、先のことなど気にもしないで、何をするにも自由気ままでした。
学校の帰りは、木々や草花、虫を追いかけ、時間の経つのも忘れました。
少し大きくなっても、喫茶店で他愛もないことを尽きることなく喋っていましたし、休みの日には目的もなく街へ繰り出して何時間も暇を潰して
いました。
思えばあの頃は、先々がどうなるか分からない不安というものはなく、むしろ何も決まっていない安堵感に身をまかせきっていました。
だからこそ、先々など気にすることもなく、今この瞬間を満喫しきっていたのでした。
何も決まっていないということは、何にでもなれる、何でもできるということです。
実力だとか環境だとか、そんなことは全く気にしない、いい意味での思考停止。暴走思考の停止でした。
それはまさに、険しい山へ登っている最中や、観光地に向かうハイウェイ渋滞にも通じる心境でした。
それらに共通しているのは、おそらく「行く先に自由な時間空間が広がっている」という安心感、期待感ではないかと思います。
何でもできる、何にでもなれる、選択権はすべて自分にある、と。
しかしそうした軽やかさも、帰り道になるとたちまち消えて無くなる。
まるで人生における、今のように。
仕事や暮らしが固まってきますと、自由自在の感覚が薄れ、一つしかない選択肢に必死になっていきます。
そこを耐え抜けばわずかな自由を確保できると信じて。
そう、わずかな自由とは、日々の終業後や週末の休みのことです。
すると、あちこち寄り道することが無駄な浪費に思えてくる。人生の寄り道はそのわずかな自由すらも失うことになる、と。
そうして黙々と機械のように一本道を進むことに従う。自ら首輪をかけてその手に鎖を握りながら。
わずかな自由を求めるあまり、今この瞬間は不自由に縛られるというのは、考えてみるとおかしな話です。
そもそも、あの世からこちらに旅立つ時、まさに長い海外旅行に行くような期待に胸踊らせていました。
さぁこれからは何でもかんでも自由自在、何でもできる、全部自分の思うまま、と。
あちらの仲間といえば、みんな、しばしの別れを惜しみながら笑顔で送り出してくれました。
そこまでして旅立ってきた「今この世界」なのでした。
ゴールデンウィーク中の旅行は、どこもかしこも渋滞で大変だったかもしれません。
それでも旅行中は、そうした苦労よりも楽しみの方が上回っていたことでしょう。
しかし、いざ日常に戻るとなるとたちまち毛穴がキュッと締まり、溜め息ばかり出るようになりました。
でも思い返せば、そもそもこの世そのものが旅先であるわけです。
ゴールデンウィークだろうと日常生活だろうと、仕事だろうと家事だろうと、どれもこれもがこの世というロングバケーションの真っただ中なのです。
あの世に帰るまで、私たちは常にゴールデンウィークの中に居続けているということです。
仕事に就いて家庭を持って生活を支えるというのは、ただ単に景色が変わっただけの話でしかありません。
決して一本道になったということではありません。
オジさんやオバさんになろうと、お爺ちゃんやおお婆ちゃんになろうと、本当は、小学校の帰り道で道草しまくってるあの頃と、私たちは何も変わっていないのです。
変わったと思い込んでいるだけ。変わったことにしようと決めただけ。そのような選択しただけなのです。
今この時も、私たちが決めている。
つまり、今この時というのはもともと何も決まってないということです。
何も決まっていないということは、何にでもなれる、何でもできるということです。
かたや、下校とともに寄り道もせず家に帰り、黙々と机に向かって勉強をしている子供。
かたや、ようやく暗くなってから全身ドロだらけで帰ってくる子供。
どちらが羨ましいか。どちらが微笑ましいか。
貴方がそう感じたように、天地も同じように感じています。
怒られるとか怒られないとか、最初からそんなものはないわけです。
本人がどちらを幸せに感じているか、ただそれだけです。
ならば、どちらをやりたいか?
本当にそれだけの話なのです。
あの世に帰ったその時、ドロだらけであるほど、まわりのみんなは土産話を聞かせてくれと笑顔で迎えてくれるでしょう。
シミひとつなく品行方正に帰ったならば、もっとドロだらけに遊んでくれば良かったのにと、誰あろう自分自身が後悔するわけです。
私たちは幾つになろうと、何様になろうと、何一つ変わっていません。
私たちは誰もがみな、旅先へ遊びに来た子どもだからです。
背伸びしてもその程度のもの。
カッコつけてもその程度のもの。
中身まで変わるものではありません。
今日からまた日常生活の始まりです。
でも心まで変える必要はありません。
元の一本道に戻る必要はありません。
寄り道、無駄足、遠まわり。
なんでもやりまくればいいのです。
こないだまでは、たまたま、今この苦労を選んでいただけです。
そしてこれからも同じような苦労、同じような道を選ぶか、あるいはたまには寄り道でもするか、それだけのことです。
同じ苦労、同じ道、同じ日常生活であっても、自ら率先してそれを選ぶだけで全く違うものになります。
見た目の形が変わらなくとも、私たちの心が変わればそれは全くの別物となります。
この世に存在するかぎり、選択権は常に私たちが持ってます。
生きているかぎり、私たちは常に選び続けているわけです。
何をやるにしても、何をやったにしても、私たちは自由自在であり続けています。
自由自在に今この選択を行なっているということです。
私たちは、今でも、何にでもなれるし、何でもできます。
子どもの頃と何一つ変わっていません。
この世にいる限り、何でもなれるし、何でもできる。
それはこの世というのが、今ココというのが、ロングバケーションの真っ最中だからです。
これからも自由自在な休暇を楽しみましょう。
Enjoy your trip !
(おわり)
とはいえ同じ渋滞でも、目的地へ向かう時ならばモチベーションも高く、どこか寄り道でもしながら気長に行こうという気持ちになります。
一方、それが帰りとなると寄り道なんて余裕はなくなりまして、渋滞をいかに回避するかで頭が一杯になります。
こうしたことは、私たちの人生にも通じるところがあります。
子どもの頃は将来なんてまるで未知数でしたから、先のことなど気にもしないで、何をするにも自由気ままでした。
学校の帰りは、木々や草花、虫を追いかけ、時間の経つのも忘れました。
少し大きくなっても、喫茶店で他愛もないことを尽きることなく喋っていましたし、休みの日には目的もなく街へ繰り出して何時間も暇を潰して
いました。
思えばあの頃は、先々がどうなるか分からない不安というものはなく、むしろ何も決まっていない安堵感に身をまかせきっていました。
だからこそ、先々など気にすることもなく、今この瞬間を満喫しきっていたのでした。
何も決まっていないということは、何にでもなれる、何でもできるということです。
実力だとか環境だとか、そんなことは全く気にしない、いい意味での思考停止。暴走思考の停止でした。
それはまさに、険しい山へ登っている最中や、観光地に向かうハイウェイ渋滞にも通じる心境でした。
それらに共通しているのは、おそらく「行く先に自由な時間空間が広がっている」という安心感、期待感ではないかと思います。
何でもできる、何にでもなれる、選択権はすべて自分にある、と。
しかしそうした軽やかさも、帰り道になるとたちまち消えて無くなる。
まるで人生における、今のように。
仕事や暮らしが固まってきますと、自由自在の感覚が薄れ、一つしかない選択肢に必死になっていきます。
そこを耐え抜けばわずかな自由を確保できると信じて。
そう、わずかな自由とは、日々の終業後や週末の休みのことです。
すると、あちこち寄り道することが無駄な浪費に思えてくる。人生の寄り道はそのわずかな自由すらも失うことになる、と。
そうして黙々と機械のように一本道を進むことに従う。自ら首輪をかけてその手に鎖を握りながら。
わずかな自由を求めるあまり、今この瞬間は不自由に縛られるというのは、考えてみるとおかしな話です。
そもそも、あの世からこちらに旅立つ時、まさに長い海外旅行に行くような期待に胸踊らせていました。
さぁこれからは何でもかんでも自由自在、何でもできる、全部自分の思うまま、と。
あちらの仲間といえば、みんな、しばしの別れを惜しみながら笑顔で送り出してくれました。
そこまでして旅立ってきた「今この世界」なのでした。
ゴールデンウィーク中の旅行は、どこもかしこも渋滞で大変だったかもしれません。
それでも旅行中は、そうした苦労よりも楽しみの方が上回っていたことでしょう。
しかし、いざ日常に戻るとなるとたちまち毛穴がキュッと締まり、溜め息ばかり出るようになりました。
でも思い返せば、そもそもこの世そのものが旅先であるわけです。
ゴールデンウィークだろうと日常生活だろうと、仕事だろうと家事だろうと、どれもこれもがこの世というロングバケーションの真っただ中なのです。
あの世に帰るまで、私たちは常にゴールデンウィークの中に居続けているということです。
仕事に就いて家庭を持って生活を支えるというのは、ただ単に景色が変わっただけの話でしかありません。
決して一本道になったということではありません。
オジさんやオバさんになろうと、お爺ちゃんやおお婆ちゃんになろうと、本当は、小学校の帰り道で道草しまくってるあの頃と、私たちは何も変わっていないのです。
変わったと思い込んでいるだけ。変わったことにしようと決めただけ。そのような選択しただけなのです。
今この時も、私たちが決めている。
つまり、今この時というのはもともと何も決まってないということです。
何も決まっていないということは、何にでもなれる、何でもできるということです。
かたや、下校とともに寄り道もせず家に帰り、黙々と机に向かって勉強をしている子供。
かたや、ようやく暗くなってから全身ドロだらけで帰ってくる子供。
どちらが羨ましいか。どちらが微笑ましいか。
貴方がそう感じたように、天地も同じように感じています。
怒られるとか怒られないとか、最初からそんなものはないわけです。
本人がどちらを幸せに感じているか、ただそれだけです。
ならば、どちらをやりたいか?
本当にそれだけの話なのです。
あの世に帰ったその時、ドロだらけであるほど、まわりのみんなは土産話を聞かせてくれと笑顔で迎えてくれるでしょう。
シミひとつなく品行方正に帰ったならば、もっとドロだらけに遊んでくれば良かったのにと、誰あろう自分自身が後悔するわけです。
私たちは幾つになろうと、何様になろうと、何一つ変わっていません。
私たちは誰もがみな、旅先へ遊びに来た子どもだからです。
背伸びしてもその程度のもの。
カッコつけてもその程度のもの。
中身まで変わるものではありません。
今日からまた日常生活の始まりです。
でも心まで変える必要はありません。
元の一本道に戻る必要はありません。
寄り道、無駄足、遠まわり。
なんでもやりまくればいいのです。
こないだまでは、たまたま、今この苦労を選んでいただけです。
そしてこれからも同じような苦労、同じような道を選ぶか、あるいはたまには寄り道でもするか、それだけのことです。
同じ苦労、同じ道、同じ日常生活であっても、自ら率先してそれを選ぶだけで全く違うものになります。
見た目の形が変わらなくとも、私たちの心が変わればそれは全くの別物となります。
この世に存在するかぎり、選択権は常に私たちが持ってます。
生きているかぎり、私たちは常に選び続けているわけです。
何をやるにしても、何をやったにしても、私たちは自由自在であり続けています。
自由自在に今この選択を行なっているということです。
私たちは、今でも、何にでもなれるし、何でもできます。
子どもの頃と何一つ変わっていません。
この世にいる限り、何でもなれるし、何でもできる。
それはこの世というのが、今ココというのが、ロングバケーションの真っ最中だからです。
これからも自由自在な休暇を楽しみましょう。
Enjoy your trip !
(おわり)