テレビで、纒向遺跡や箸墓古墳の特集をしていました。
纒向遺跡は卑弥呼の住居、箸墓古墳は卑弥呼の墓と言われる遺構です。
卑弥呼や邪馬台国という言葉を聞いただけで、ふつふつと気持ちが昂ぶってまいります。
たとえば宇宙に関わるニュースというのはみんなテンションが上がるところだと思います。
ピラミッドのような古代文明もそうかもしれません。
そうしたものは未来と過去の差はあれども、どちらも未知に対するワクワク感そのものと言えます。
未知を体験する、それが私たちの存在そのものですからテンションが上がるのも当然といえるでしょう。
一方で、この国の古代の話となると、日本人にとってはそれとは違う意味で気持ちが昂ぶるところではないかと思います。
それというのは一つには、神話のロマンという夢物語が、遺跡という物質的証拠によってたちまち実体化する、つまりリアルな皮膚感覚化することの感動にあるかと思います。
雲をつかむような遠大な距離が一瞬で消失し、身近な現実のものとして実体感を覚える。
それはつまり、太古から連なる大河の流れが今この自分に直結した瞬間とも言えます。
ボンヤリと見え隠れするその大河を確信したい。霧のようなモヤモヤをスパーンと晴れ渡らせたい。
そうした本能的な衝動がそこにあるような気がします。
実際、日本というのは太古から脈々と連なる膨大な歴史があるはずなのに、わずか1500年くらいしかハッキリしていません。
古代ローマや古代中国、古代エジプトなど他の文明では鮮明にそれが見えているだけに、歯がゆい思いのするところです。
もちろんそこには深い理由があって、隠されているがゆえに日本という国が今に至るまでこの姿、この風習のまま存続できたわけで、もしも
隠されることなく太古の歴史が世界に知れるところになっていたならば、日本の国柄や感性が破壊されていたか、国そのものが滅ぼされていた
ことでしょう。
覇権主義の国々というのは劣等意識を抱いたが最後、たとえ相手に争う気がなくても、相手を侵略しつくして屈服させるか、この世から消し去るか
しないと劣等感を払拭できず苦しみ続けてしまうからです。
世の中には、どちらも知らない方が幸せな真実があるということです。
石器時代、縄文時代から弥生時代、古墳時代まで何万年もの時が流れていますが、そうした長い長い封印の中で、一瞬のフラッシュのように
この国の姿をパッと映し出した瞬間がありました。
それが『魏志倭人伝』です。
正式には『三国志』(魏・呉・蜀)の中の『魏書』の一部。
周辺諸国について書かれた『東夷伝』の中のほんの一編。わずか二千字。
原稿用紙にして、たった5枚ほど。
まさに暗闇に差す一瞬の光の如くですが、それでもそこに私たちは大河の実在を垣間見るわけです。
伝説や神話ではなく、確かに存在したと。
ところでこの記録書というのは、自分たちの優劣意識を満たすために、他国に対してひたすら蔑めるような当て字を使っています。
邪馬壹国、倭人、卑弥呼、といったようにです。
物心ついた時から見ている字なので、私たちも何の疑いもなく「そういう変わった文字を使うところがいかにも古代っぽい」くらいにしか思って
いませんが、あらためて頭をリセットさせますと、とにかく酷い漢字ばかり使われていることに気づきます。
隣国を卑下して呼び名に動物の漢字やケモノヘンの漢字を当てる。
そんな感性ではいつまでも国がもつはずもなく、あとは推して知るべし。歴史が証明するところです。
「他者を貶めて自己保身を図るような人々は必ず滅びます」
これは時代に関係なく誰にでも当てはまる理屈なので、国内外よくよく注意が必要です。
さてそれでは改めて、このような悪意に満ちた漢字をリセットさせて、真っさらになって読み直すとどうなるか見てみましょう。
◯邪馬壹国 ⇨ ヤマト国 ⇨ 大和国
◯倭人 ⇨ ワ人 ⇨ 和人
◯卑弥呼 ⇨ ヒミコ ⇨ 日巫女、日御子、日神子
ごく普通に「大和国に住む和人たち、それを統べる日神子」となるのでした。
原文の漢字のままでは、古くからの生活をルーチンで繰り返すだけの、知性や感性の弱々しい、大陸に比べ文明文化の劣る人たちをイメージする
ところでしたが、当て字を変えた途端にそれがガラリと変わります。
まさしく古代の印象操作です。笑
時代はもう少しあと、古墳時代になりますが、倭姫命(やまとひめのみこと)という方がいらっしゃいます。
天照大御神の御杖代(依り代)となって、その鎮座する場を探して諸国を巡り、ついに伊勢に至った皇女(天皇の娘)です。
ここでも「倭」と書いて「やまと(大和)」と呼んでいます。
つまり当時の日本では、「倭」=「和」と認識していたことになります。
そしてその倭姫が伊勢の地に辿り着く以前、天照大御神を祀っていた場所というのが元伊勢と呼ばれる奈良(大和国)の檜原神社でした。
この元伊勢(檜原神社)と、纒向遺跡、箸墓古墳は歩いて行けるほどの近さにあります。
邪馬壹国と聞くと、今の日本の流れとは断絶した、どこか遠くに消えてなくなった小国のような感じがしますが、この三ヶ所の位置関係を見た
だけでも、地理的には断絶どころか丸っきり一つの流れであることが分かります。
さらに言えば、箸墓古墳は宮内庁によって倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓に治定されています。
卑弥呼の墓というのは一つの説で、といって倭迹迹日百襲姫命の墓が正しいとする根拠もありません。
ただ、その2人の重複によって逆に色々なものが見えてきます。
倭迹迹日百襲姫命は第7代孝霊天皇の皇女です。
母が倭国香媛となっておりますので、まさしく大和の地の血筋と想像できます。
(箸墓古墳と三輪山)
小難しい話をするつもりはありませんが、あと少しだけお付き合い下さい。
倭迹迹日百襲姫命とはまた長い名前ですが、文字を省略すると倭姫命(天照大御神の御杖代、伊勢神宮の斎主)との関連性を感じずにはいられません。
ちなみに倭姫命は4代くだった第11代垂仁天皇の皇女になります
さすがにこの3人が同一人物というのは無理がありますが、それでも地理的にも内容的にもこれだけ近い年代で重なってきますと、そこには何らか
の繋がりがあると考えるのが自然でしょう。
◯箸墓 = 日巫女の墓、倭迹迹日百襲姫命(皇女)の墓
◯纒向遺跡 = 日巫女の住居
◯檜原神社 = 伊勢神宮の前身
この三ヶ所が、歩いていけるほどの距離に集まっているわけです。
ヒミコは太陽神を祀る祭主でした。
そして大和国の精神的支柱でした。
その後も同じ土地で太陽神は祀られ続け、そののち伊勢に遷り(うつり)ました。
伊勢神宮においても斎主は代々、皇女がつとめられています。
そして現在は黒田清子様が務められています。
ヒミコというのは個人名ではなく役職名ないし尊称であったとも言われますが、もしそうであるならば、弥生時代以降も檜原神社を経て、今に
至るまで皇女がその務めを引き継ぎ続けているということになります。
今この時は、黒田清子様が日巫女の役目をお務めされているということです。
(弥生建築を今に残す、伊勢神宮の唯一神明造り)
今日はこの国の連続性について書き綴っています。
もう一度整理してみます。
言うまでもなく、大和とは日本のことです。
そして日本の皇祖神は天照大御神です。
「卑弥呼」とは「日の神子、日の御子、日の巫女」でしたので、それを書き下すと「天照大御神の子孫にして、天照大御神を祀る巫女」という
ことになります。
それを踏まえて、魏志倭人伝を読み返します。
「大和という国に和を貴ぶ人たちが住んでいました。それらを統べているのは日神子(日巫女)という人物でした。」
大和の国は今もここにあります。
そして天照大御神の末裔にして、天照大御神を祀られている存在は今もおられます。
つまり、私たちの国というのは飛鳥時代や奈良時代あたりからボンヤリと現れたのではなく、遥か昔、弥生時代にはすでに今と全く形で成立して
いたということです。
しかもそれは悪口三昧の大陸の記録書をして「和人」と呼ばせるほどに、和を重んじる調和の民族であったわけです。
そして天照大御神の子孫が祖神を祀り、祭主として国の中心となっていたのでした。
まるっきり今現在と変わらぬ姿です。
古い記録書にほんの一瞬だけ映った景色。
わずかそれだけであっても、私たちにはすべてが繋がります。
そうしますと、その魏志和人伝よりも前の時代から、そのような景色があったことも想像できます。
私たちの国というのは、弥生時代よりもっと古くから、今と同じような状態で存在していたということになります。
ものの感じ方、考え方、生き方、国の在り方、国柄の何もかもが今と変わらず遥かな太古から延々と続いている。
誇らしいのはもちろん、この上ない有り難みを感じるばかりです。
私たちというのは自分ひとりで成り立っているものではありません。
何百年、何千年も連綿と続く流れそのものが私たちなのです。
脳ミソや自意識の世界に居ると、一個体という小さな存在になってしまって、まるで大海の荒波に翻弄される葉っぱのような頼りなさを感じてしまいます。
でもそこで、私たちという「存在」を考えた時、たちまち何千年もの歴史が広大な大河となって、その背後にドドーンと現れてきます。
この国とご先祖様たちという、果てしなく広がる情景がアリアリと感じられるようになるわけです。
それも、薄っすらとした弱々しい景色なんかではなく、すでに弥生時代の昔には今と全く同じ世界が出来上がっていたという、途轍もなく濃密で
深淵な広がりがあるわけです。
それが今この私たちの足元まで、直行でズドーンと繋がっている。
チョロチョロと弱々しい流れなどではなく、ブレようのない広大な大河が、私たちの背中へ直接ドーンと流れ込んできているのです。
私たちは弥生時代の昔からすでに「和の人」でした。
そうなろうとして成っているのではなく、この地に生まれた時から、私たちの存在そのものが「和」であったわけです。
もちろんそれは私たち一個人の資質などではなく、この大河そのものを指しています。
何千年もの流れがそれを培ってきたのですから、今ここで謙遜したり疑ったりする必要は全くありません。そういう話ではありません。
信じる信じないではなく、それを事実と理解することです。
私たちは、そもそも「和」そのものなのです。
いちいち迷ったりブレたりするなどアホらしいほど、私たちの存在そのものは最初から定まっているわけです。
あること無いこと金切り声で騒ぎ立てて他人の足を引っぱるような輩がいたところで、それに振り回されるような、そんな薄っぺらい存在では
ないのです。
例えば過去にも、異なる価値観に翻弄された時期がありました。
最初の一つは、弥生時代から数世紀のち、飛鳥時代のことでした。
この時代、蘇我氏を筆頭に大陸や半島から移民が数多く国政に雪崩れ込んできました。
我欲を前面に押し出し、強引な進め方で他者を貶めて牛耳る。そのような風潮が蔓延しました。
この国の在り方そのものが危機に陥った時、今一度、私たちとは何なのか思い出しましょうというのが十七条憲法でした。
聖徳太子は移民たちによって乱される風潮に対して、古くから私たちが引き継いできた感性、その大流を改めて気づかせようとしたのでした。
それは新しい提案などではなく、もともと私たちが持っているものを思い出させようとしたものでした。
翻って、今この国を眺めますと、まさに聖徳太子の時代と同じような情勢になっていることに気がつきます。
自分の思い通りにならないならば、大声をあげて騒ぎ立て、他者を貶め、力に物を言わせて白も黒にしてしまう。
それは何千年も紡がれてきた和人の感性には全くそぐわないものです。私たちが心地よく感じる調和には程遠いものです。
私たちには何千年にもわたる揺るぎない大河が流れています。
「和を以て貴しと為す」
思い出して下さい
私たちは何者でしたか?
忘れてはいけませんよ
ただ思い出すだけですよ
十七条憲法の第一条からはそんな声が聞こえてきます。
大いなる調和と聞くと、未来の理想社会や、どこか遠い星の高度文明、あるいは欲望を断ち切った解脱集団のような夢幻の世界に聞こえます。
でも、そんな大それたものなんかではありませんでした。
大いなる調和というのは、私たちのことです。
そうなろうとしなくても、私たちはこの国に生まれた時点で、もうそうなのです。
たとえ貴方がこれまで何十年間か自らを汚してしまったとしても、そんな、たかだか何十年間の汚れなど微塵も影響しないほど、途轍もなく広大な
大河が流れこんでいるのです。
絶対的な信頼を置いて大丈夫です。
頼りきって大丈夫。まかせきって大丈夫。
ひるまず、慌てず、落ち込まず、安心しきって堂々と前を向いて歩けば良い。
いちいち雑音なんかに耳を貸すことはありません。
大河の流れは、生命そのものです。
生命のエネルギーが大河となって私たちに流れこんでいます。
大河の流れは、私たちそのものであり、ご先祖様たちそのものであり、何千年ものこの国の姿であり、何万年ものこの大地の存在であります。
大いなる流れを前にしますと、言葉には表せられない思いが全身に湧き上がってきます。
ただただ、感謝しかなくなるわけです。
生きていることへの感謝は五穀豊穣の感謝となり、大流そのものへの感謝はご先祖様たちやこの国への感謝となります。
私たちに流れるその広がりへ身をまかせて、感謝と祈りを捧げる。
その大河への感謝は、ご先祖様への感謝となり、この国への感謝となり、この大地への感謝となります。
それが、遥か昔から当たり前になされてきた。
それゆえの「和人」であるわけです。
今この私たちは、まごうかたなき大和民族です。
その大河を観て、私たちへ流れ込む生命のエネルギーを感じるならば、私たちも感謝を捧げるだけです。
この大地へ、この国へ、ご先祖様たちへ。
それがこの大河を途絶えさせないための務めとなります。
私たちのその思い、その心が、今この瞬間の流れとなって、未来へ繋がる大河となるのです。
(大和国・笠縫邑の三輪山)
(おわり)
纒向遺跡は卑弥呼の住居、箸墓古墳は卑弥呼の墓と言われる遺構です。
卑弥呼や邪馬台国という言葉を聞いただけで、ふつふつと気持ちが昂ぶってまいります。
たとえば宇宙に関わるニュースというのはみんなテンションが上がるところだと思います。
ピラミッドのような古代文明もそうかもしれません。
そうしたものは未来と過去の差はあれども、どちらも未知に対するワクワク感そのものと言えます。
未知を体験する、それが私たちの存在そのものですからテンションが上がるのも当然といえるでしょう。
一方で、この国の古代の話となると、日本人にとってはそれとは違う意味で気持ちが昂ぶるところではないかと思います。
それというのは一つには、神話のロマンという夢物語が、遺跡という物質的証拠によってたちまち実体化する、つまりリアルな皮膚感覚化することの感動にあるかと思います。
雲をつかむような遠大な距離が一瞬で消失し、身近な現実のものとして実体感を覚える。
それはつまり、太古から連なる大河の流れが今この自分に直結した瞬間とも言えます。
ボンヤリと見え隠れするその大河を確信したい。霧のようなモヤモヤをスパーンと晴れ渡らせたい。
そうした本能的な衝動がそこにあるような気がします。
実際、日本というのは太古から脈々と連なる膨大な歴史があるはずなのに、わずか1500年くらいしかハッキリしていません。
古代ローマや古代中国、古代エジプトなど他の文明では鮮明にそれが見えているだけに、歯がゆい思いのするところです。
もちろんそこには深い理由があって、隠されているがゆえに日本という国が今に至るまでこの姿、この風習のまま存続できたわけで、もしも
隠されることなく太古の歴史が世界に知れるところになっていたならば、日本の国柄や感性が破壊されていたか、国そのものが滅ぼされていた
ことでしょう。
覇権主義の国々というのは劣等意識を抱いたが最後、たとえ相手に争う気がなくても、相手を侵略しつくして屈服させるか、この世から消し去るか
しないと劣等感を払拭できず苦しみ続けてしまうからです。
世の中には、どちらも知らない方が幸せな真実があるということです。
石器時代、縄文時代から弥生時代、古墳時代まで何万年もの時が流れていますが、そうした長い長い封印の中で、一瞬のフラッシュのように
この国の姿をパッと映し出した瞬間がありました。
それが『魏志倭人伝』です。
正式には『三国志』(魏・呉・蜀)の中の『魏書』の一部。
周辺諸国について書かれた『東夷伝』の中のほんの一編。わずか二千字。
原稿用紙にして、たった5枚ほど。
まさに暗闇に差す一瞬の光の如くですが、それでもそこに私たちは大河の実在を垣間見るわけです。
伝説や神話ではなく、確かに存在したと。
ところでこの記録書というのは、自分たちの優劣意識を満たすために、他国に対してひたすら蔑めるような当て字を使っています。
邪馬壹国、倭人、卑弥呼、といったようにです。
物心ついた時から見ている字なので、私たちも何の疑いもなく「そういう変わった文字を使うところがいかにも古代っぽい」くらいにしか思って
いませんが、あらためて頭をリセットさせますと、とにかく酷い漢字ばかり使われていることに気づきます。
隣国を卑下して呼び名に動物の漢字やケモノヘンの漢字を当てる。
そんな感性ではいつまでも国がもつはずもなく、あとは推して知るべし。歴史が証明するところです。
「他者を貶めて自己保身を図るような人々は必ず滅びます」
これは時代に関係なく誰にでも当てはまる理屈なので、国内外よくよく注意が必要です。
さてそれでは改めて、このような悪意に満ちた漢字をリセットさせて、真っさらになって読み直すとどうなるか見てみましょう。
◯邪馬壹国 ⇨ ヤマト国 ⇨ 大和国
◯倭人 ⇨ ワ人 ⇨ 和人
◯卑弥呼 ⇨ ヒミコ ⇨ 日巫女、日御子、日神子
ごく普通に「大和国に住む和人たち、それを統べる日神子」となるのでした。
原文の漢字のままでは、古くからの生活をルーチンで繰り返すだけの、知性や感性の弱々しい、大陸に比べ文明文化の劣る人たちをイメージする
ところでしたが、当て字を変えた途端にそれがガラリと変わります。
まさしく古代の印象操作です。笑
時代はもう少しあと、古墳時代になりますが、倭姫命(やまとひめのみこと)という方がいらっしゃいます。
天照大御神の御杖代(依り代)となって、その鎮座する場を探して諸国を巡り、ついに伊勢に至った皇女(天皇の娘)です。
ここでも「倭」と書いて「やまと(大和)」と呼んでいます。
つまり当時の日本では、「倭」=「和」と認識していたことになります。
そしてその倭姫が伊勢の地に辿り着く以前、天照大御神を祀っていた場所というのが元伊勢と呼ばれる奈良(大和国)の檜原神社でした。
この元伊勢(檜原神社)と、纒向遺跡、箸墓古墳は歩いて行けるほどの近さにあります。
邪馬壹国と聞くと、今の日本の流れとは断絶した、どこか遠くに消えてなくなった小国のような感じがしますが、この三ヶ所の位置関係を見た
だけでも、地理的には断絶どころか丸っきり一つの流れであることが分かります。
さらに言えば、箸墓古墳は宮内庁によって倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓に治定されています。
卑弥呼の墓というのは一つの説で、といって倭迹迹日百襲姫命の墓が正しいとする根拠もありません。
ただ、その2人の重複によって逆に色々なものが見えてきます。
倭迹迹日百襲姫命は第7代孝霊天皇の皇女です。
母が倭国香媛となっておりますので、まさしく大和の地の血筋と想像できます。
(箸墓古墳と三輪山)
小難しい話をするつもりはありませんが、あと少しだけお付き合い下さい。
倭迹迹日百襲姫命とはまた長い名前ですが、文字を省略すると倭姫命(天照大御神の御杖代、伊勢神宮の斎主)との関連性を感じずにはいられません。
ちなみに倭姫命は4代くだった第11代垂仁天皇の皇女になります
さすがにこの3人が同一人物というのは無理がありますが、それでも地理的にも内容的にもこれだけ近い年代で重なってきますと、そこには何らか
の繋がりがあると考えるのが自然でしょう。
◯箸墓 = 日巫女の墓、倭迹迹日百襲姫命(皇女)の墓
◯纒向遺跡 = 日巫女の住居
◯檜原神社 = 伊勢神宮の前身
この三ヶ所が、歩いていけるほどの距離に集まっているわけです。
ヒミコは太陽神を祀る祭主でした。
そして大和国の精神的支柱でした。
その後も同じ土地で太陽神は祀られ続け、そののち伊勢に遷り(うつり)ました。
伊勢神宮においても斎主は代々、皇女がつとめられています。
そして現在は黒田清子様が務められています。
ヒミコというのは個人名ではなく役職名ないし尊称であったとも言われますが、もしそうであるならば、弥生時代以降も檜原神社を経て、今に
至るまで皇女がその務めを引き継ぎ続けているということになります。
今この時は、黒田清子様が日巫女の役目をお務めされているということです。
(弥生建築を今に残す、伊勢神宮の唯一神明造り)
今日はこの国の連続性について書き綴っています。
もう一度整理してみます。
言うまでもなく、大和とは日本のことです。
そして日本の皇祖神は天照大御神です。
「卑弥呼」とは「日の神子、日の御子、日の巫女」でしたので、それを書き下すと「天照大御神の子孫にして、天照大御神を祀る巫女」という
ことになります。
それを踏まえて、魏志倭人伝を読み返します。
「大和という国に和を貴ぶ人たちが住んでいました。それらを統べているのは日神子(日巫女)という人物でした。」
大和の国は今もここにあります。
そして天照大御神の末裔にして、天照大御神を祀られている存在は今もおられます。
つまり、私たちの国というのは飛鳥時代や奈良時代あたりからボンヤリと現れたのではなく、遥か昔、弥生時代にはすでに今と全く形で成立して
いたということです。
しかもそれは悪口三昧の大陸の記録書をして「和人」と呼ばせるほどに、和を重んじる調和の民族であったわけです。
そして天照大御神の子孫が祖神を祀り、祭主として国の中心となっていたのでした。
まるっきり今現在と変わらぬ姿です。
古い記録書にほんの一瞬だけ映った景色。
わずかそれだけであっても、私たちにはすべてが繋がります。
そうしますと、その魏志和人伝よりも前の時代から、そのような景色があったことも想像できます。
私たちの国というのは、弥生時代よりもっと古くから、今と同じような状態で存在していたということになります。
ものの感じ方、考え方、生き方、国の在り方、国柄の何もかもが今と変わらず遥かな太古から延々と続いている。
誇らしいのはもちろん、この上ない有り難みを感じるばかりです。
私たちというのは自分ひとりで成り立っているものではありません。
何百年、何千年も連綿と続く流れそのものが私たちなのです。
脳ミソや自意識の世界に居ると、一個体という小さな存在になってしまって、まるで大海の荒波に翻弄される葉っぱのような頼りなさを感じてしまいます。
でもそこで、私たちという「存在」を考えた時、たちまち何千年もの歴史が広大な大河となって、その背後にドドーンと現れてきます。
この国とご先祖様たちという、果てしなく広がる情景がアリアリと感じられるようになるわけです。
それも、薄っすらとした弱々しい景色なんかではなく、すでに弥生時代の昔には今と全く同じ世界が出来上がっていたという、途轍もなく濃密で
深淵な広がりがあるわけです。
それが今この私たちの足元まで、直行でズドーンと繋がっている。
チョロチョロと弱々しい流れなどではなく、ブレようのない広大な大河が、私たちの背中へ直接ドーンと流れ込んできているのです。
私たちは弥生時代の昔からすでに「和の人」でした。
そうなろうとして成っているのではなく、この地に生まれた時から、私たちの存在そのものが「和」であったわけです。
もちろんそれは私たち一個人の資質などではなく、この大河そのものを指しています。
何千年もの流れがそれを培ってきたのですから、今ここで謙遜したり疑ったりする必要は全くありません。そういう話ではありません。
信じる信じないではなく、それを事実と理解することです。
私たちは、そもそも「和」そのものなのです。
いちいち迷ったりブレたりするなどアホらしいほど、私たちの存在そのものは最初から定まっているわけです。
あること無いこと金切り声で騒ぎ立てて他人の足を引っぱるような輩がいたところで、それに振り回されるような、そんな薄っぺらい存在では
ないのです。
例えば過去にも、異なる価値観に翻弄された時期がありました。
最初の一つは、弥生時代から数世紀のち、飛鳥時代のことでした。
この時代、蘇我氏を筆頭に大陸や半島から移民が数多く国政に雪崩れ込んできました。
我欲を前面に押し出し、強引な進め方で他者を貶めて牛耳る。そのような風潮が蔓延しました。
この国の在り方そのものが危機に陥った時、今一度、私たちとは何なのか思い出しましょうというのが十七条憲法でした。
聖徳太子は移民たちによって乱される風潮に対して、古くから私たちが引き継いできた感性、その大流を改めて気づかせようとしたのでした。
それは新しい提案などではなく、もともと私たちが持っているものを思い出させようとしたものでした。
翻って、今この国を眺めますと、まさに聖徳太子の時代と同じような情勢になっていることに気がつきます。
自分の思い通りにならないならば、大声をあげて騒ぎ立て、他者を貶め、力に物を言わせて白も黒にしてしまう。
それは何千年も紡がれてきた和人の感性には全くそぐわないものです。私たちが心地よく感じる調和には程遠いものです。
私たちには何千年にもわたる揺るぎない大河が流れています。
「和を以て貴しと為す」
思い出して下さい
私たちは何者でしたか?
忘れてはいけませんよ
ただ思い出すだけですよ
十七条憲法の第一条からはそんな声が聞こえてきます。
大いなる調和と聞くと、未来の理想社会や、どこか遠い星の高度文明、あるいは欲望を断ち切った解脱集団のような夢幻の世界に聞こえます。
でも、そんな大それたものなんかではありませんでした。
大いなる調和というのは、私たちのことです。
そうなろうとしなくても、私たちはこの国に生まれた時点で、もうそうなのです。
たとえ貴方がこれまで何十年間か自らを汚してしまったとしても、そんな、たかだか何十年間の汚れなど微塵も影響しないほど、途轍もなく広大な
大河が流れこんでいるのです。
絶対的な信頼を置いて大丈夫です。
頼りきって大丈夫。まかせきって大丈夫。
ひるまず、慌てず、落ち込まず、安心しきって堂々と前を向いて歩けば良い。
いちいち雑音なんかに耳を貸すことはありません。
大河の流れは、生命そのものです。
生命のエネルギーが大河となって私たちに流れこんでいます。
大河の流れは、私たちそのものであり、ご先祖様たちそのものであり、何千年ものこの国の姿であり、何万年ものこの大地の存在であります。
大いなる流れを前にしますと、言葉には表せられない思いが全身に湧き上がってきます。
ただただ、感謝しかなくなるわけです。
生きていることへの感謝は五穀豊穣の感謝となり、大流そのものへの感謝はご先祖様たちやこの国への感謝となります。
私たちに流れるその広がりへ身をまかせて、感謝と祈りを捧げる。
その大河への感謝は、ご先祖様への感謝となり、この国への感謝となり、この大地への感謝となります。
それが、遥か昔から当たり前になされてきた。
それゆえの「和人」であるわけです。
今この私たちは、まごうかたなき大和民族です。
その大河を観て、私たちへ流れ込む生命のエネルギーを感じるならば、私たちも感謝を捧げるだけです。
この大地へ、この国へ、ご先祖様たちへ。
それがこの大河を途絶えさせないための務めとなります。
私たちのその思い、その心が、今この瞬間の流れとなって、未来へ繋がる大河となるのです。
(大和国・笠縫邑の三輪山)
(おわり)