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ウサギとカメ

2017-09-13 12:54:18 | 私は誰でしょう
私たちというのは何を指すのでしょうか。
どれが私たちなのでしょうか。

それを問うことは、表面的な事象に振り回されなくなり、表面的な事象をより一層味わうことへと通じていきます。

この肉体は私たちですが、私たちそのものではないことは感覚的に分かります。

この自我も私たちの一部ですが、私たちそのものではないことも漠然と分かります。

そうしたものを極限まで削り落として最後に残ったものを真我と呼んだ場合、それを私たちはどれほど感じ取れているかということです。

もちろん自我と真我を大きく区別することはできるでしょうが、曖昧になっている部分が想像以上に沢山あることを知る必要があります。

例えば私たちは、生まれつきの性格や自分らしさはどうしようもないものだと考えて、いつもの反応、いつもの感情をそのまま繰り返して
しまったりしています。
それはますます自我に縛られることを意味しています。

あるいは冷静に振り返って、今の家庭で、今の職場でリピート再生させている感情、態度というのは10年前とは違うものになってはいないか。
それを、立場が変わったとか、環境が変わったという理由で諦めてしまってはいないかということです。

立場の変化でも環境の変化でもなく、私たちは知らず知らずのうちに「自分」というものを着込んでしまっています。
自分で自分を縛ってしまっているわけです。

長らく着込んでいる変わらない「自分」という服もあれば、ここ数年着続けてしまっている「最近の自分」というアレンジもあります。

それはいずれも心の服装、心のパターンと表現することも出来ます。

縛られない自分とはどれなのか、服を脱ぎ捨てた本当の私たちとはどれなのか。
それを考えようとしてもすでに別のものを着込んでしまっている状態では、その上からそれを知るのは大変に困難な作業となります。

遥か昔から、私たちは身軽になって本当の自分に立ち返ろうと様々なアプローチを図ってきました。
それは宗教的なものもあれば、武道的なものもあります。
禊ぎのために身を削ぐ修行を行なったり、心の平穏を求めて世を捨てたり…

しかし自らの内に答えを求めても、着ぐるみにガードされてどうにもならない。
そのため多くはすぐに挫折して、悲しみのうちにまた同じパターンを繰り返してしまいました。

そのような場合、まわりに頼ってみるのも一つの策となります。
外に吹く風へと耳を傾けてみるということです。

外から吹く風というのは、様々な出来事、事件・事故、まさしく人生そのものを指します。
不幸、不運というのは私たちが勝手に決めつけたものであって、どんな出来事であろうとそれは私たちが何者であるのか映し出す鏡そのものです。

天地宇宙あらゆる存在は自分で自分の姿を見ることができません。
そのため、自分の外にある存在や出来事によって自分の姿を映し見ることに成ります。

その中には強制的に自分像を垣間見させてくれるものもあります。
病気もその一つで、そのとき自分のありのままの姿を認識することができるのでした。

そして同じように、自分像にしがみつかせないための最大の仕掛けといえるのが「老化」です。




人間というのは上手くできたもので、歳を追うとともに体力が失われていき、見た目も変化していきます。

それとともに私たちは長年のこだわりを手離していくことになります。
手放さざるを得なくなるわけです。

そのこだわりの最たるものが自分像ということです。

若い頃のような瞬発力や判断力、筋力、スピードは失われ、視野も狭くなります。
すぐに息が切れて休みたくなり、気圧や温度の変化で節々が痛んだりします。

そのとき全盛期のことを頭に浮かべ、今を悲しんだところで痛みや苦しみはかえって増すばかりとなります。
まさに病気の時と同じ理屈です。

そうして老いを認めずこれまでの自分像にしがみつき、あれこれ抵抗を続けますが、そうはいっても節々の痛みや疼きはどうしようもない。
視力の衰えも、耳の衰えも認めるしかない。
髪が薄くなっていくのも、シワが増えていくのもどうしようもない。

そうして一つまた一つと現実を受け入れてこだわりを捨てていくにつれて私たちは心が軽くなっていきます。

一つを受け入れてしまえば、その次の一つも受け入れやすくなっていきます。
老いるというのはまさしくその積み重ねであるわけです。

気張ったり頑張ったり認めまいという、我(が)が薄まっていく。その時、初めて私たちはありがたさというものを噛みしめるようになります。

若い頃に次々と人を追い抜き、健康もかえりみずやりたい放題やっていた、その慢心を心底感じるようになります。

老いるとは、謙虚になっていくことであるわけです。

逆に目の前のことを頑(がん)として認めないと、その次の一つも受け入れにくくなります。
気張ったり頑張ったり認めまいという我が強まっていくと、ガンコ老人になっていってしまいます。

自分像にしがみつくことは我執を強めて行くことに通じます。
自分像を脱ぎ捨てて行くことは我執を薄めて行くことに通じます。

そして身の丈に合ったものを有り難く受け入れることは生きやすさに通じていきます。

若い頃はエネルギーがほとばしり、ガンガン飛ばしたくて抑えきれないものです。
たとえばドライブにしても、しっかりしたエンジンでスピードの出る車に乗るとワクワクします。

しかし齢とともに知覚が鈍ってまいりますとスピードの出すぎる車は逆に怖くなってきます。
そうしてスピードは出なくとも安定感のある車の方がホッと感じるようになります。

まわりの車にドンドン抜かされていったところで、もともとスピードが出ない車なのでことさらムカッとなることもなく平穏に運転します。
誰かと競おうとは思いませんし、負けてるとも思いません。
そこに意味づけをしないので追い抜かす追い抜かさないなどということ自体が存在せずただの景色として流れていきます。

それが謙虚というものです。

謙虚とは考えて行なうようなものではなく、状態のことを指すわけです。

今までの当たり前が一つ一つ失われていくにつれて、私たちの心はますます軽くなっていきます。

それはこれまでの輝きがポロポロと崩れていくということでなく、私たちが長年しがみついてきた自分像を手放していくことに他なりません。

老いるというのは、一つ一つのメッキが剥がれ落ちて、生まれたままの無垢な輝きが表に現れてくることであるわけです。

若い頃はウサギのように全力疾走をするものです。
それが若い頃にだけ味わえる景色であり体験であるということです。
そして年齢とともにカメのように歩みが遅くなり、それに応じた景色や体験が得られるようになります。
それが老いてから味わえる景色であり体験であるということです。

どちらが勝ち負けというものではありません。
それぞれの目線でしか味わえないものを味わっているだけです。


ですから自我とともに走りまわることも、何ら悪いことではないということになります。
そのようにして初めて味わえる世界があるからです。
若い頃は自我に強く振り回されるのがイイのです。
まさに「災難に遭う時節には遭うがよく候」であるわけです。

しかし、ウサギからカメへとマイナーチェンジしているのに昔のように自我とともに走りまわろうとするのは執着にしかなりません。

若さを否定する必要もありませんし、老いを拒否する必要もありません。

その場その時にしか味わえないものを天地宇宙は私たちに用意してくれます。
それを優劣判断つけることは愚かなことでしかありません。

最後にカメはウサギを老い抜き、未知の世界へ辿り着きました。
ウサギとは若い頃の私たちのことであり、カメとは年老いた私たちなのでした。



私たちが日夜抱いている自分像を手放した先にあるもの、それが本当の私たちです。

受け入れていく、手放していく、こだわりをなくしていく。
それは自我が薄まることと同意です。

自我が薄まるということは天地と一つになっていくということです。
老いるというのは天地宇宙に同化していくことに他なりません。

だから昔からご老人は神様のように敬われていたわけです。
年老いたくないというのはトンチンカンな話でしかありません。

そしてそのようになった時、私たちは世界の紛争や他人の不幸が身近なことのように感じ、不安になったり痛ましく思うことでしょう。
わずかなことにもオロオロしてしまう。まさしくそれは宮澤賢治の憧れた聖人君子の姿そのものです。

年老いて心配ごとが多くなるのは何も心が弱ったからではなく、純粋無垢な天地の心そのものに近づいたからだと言えます。

「私とは何か」
それをひたすら問い続けて覚醒したインドの聖人が居ます。

その聖人は問い続けの過程の中で、数多くの自分像を手放したのではないかと想像します。

老いるというのは、無自覚のままにこれをやっていることに他なりません。
一番上に着込んでいる自分像を脱ぎ捨てていく。
そう考えると、老いるとは聖人になっていくことであり、悟りを開いていくことでもあるわけです。

より良い状態を追うこともなく、自分像を追うこともなく、今をそのまま受け入れれば何もぶつかることなく通り抜けていきます。

すべてを脱ぎ捨てた本当の私たちとは今ココのことです。

アダムとイブが追放された楽園というのは、まさしく今ココのことであったわけです。

明日を追わず、昨日を顧みず、理想に縛られず、幻想に囚われず、今ココと一つになる。

病気や老い、事件や事故、様々な出来事、それは私たちの本当の姿に気づかせてくれる他力の風であり、鏡と成ります。

生病老死。

これらは仏教では四苦と言われており、思い通りにならない苦しみだとされてますが、それは今ココを受け入れていないということに尽きます。

ですから実は、その思い通りにならないという苦しみこそが、私たちを今ココに戻すための天の計らいであったということです。

私たちとはウサギであります。
そして私たちとはカメであります。

そしてそれを味わっている私たちとは、今ココの天地宇宙そのものであるのです。





(おわり)

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