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すべて逆に行っている

2017-02-11 22:19:20 | 天地の仕組み
私たちは「この世はしがらみが多く、とても窮屈な世界」というイメージを持ってしまっています。

「自由自在なあの世と比べればまるで逆の世界」
「この世はしがらみだらけの世界、あの世はしがらみから解放された世界」


漠然とそのように感じているところがあるのではないかと思います。
しかし今日の話としては、その解釈こそが逆だったというものになります。

考えてみれば当たり前の話なのですが、あまりにも当たり前すぎて普段私たちはスルーしてしまっています。

その当たり前というのは「この世では私たちはあらゆる全てのことを天地から許されている」というものです。
この世は、何をやっても許される世界であるということです。

何でも出来る世界。
比喩的な話ではなく現実的な話として、選択肢は無限という事実です。

何故この世がそのようになっているのか、その理由は、この世とあの世というのが、その見た目とは逆の白と黒とが互いに流れ流れている
ところにあります。

この世というのは目に見えるものですが、そこでの経験は目には見えないものです。
しかし、目に見えないあの世にあって、この世の経験というのは目に見えるものとなります。

見えないあの世を白、見えるこの世を黒とした場合、「この世での経験」というものはこの世では白ですが、あの世では黒となるわけです。
(ここでの白黒というのはあくまで対極を表す比喩ですからそれ自体にプラスマイナスの意味はありません)

つまり、この世での経験が白黒逆転してあの世へと流れていくということです。
それはあの世では生み出すことのできないものです。
だからこの世というものを作り上げて、そこで生み出しているというわけです。

そしてこの世の「経験」があの世へ流れていくことによって天地のバランスが保たれています。

その流れこそが大事であって、経験そのものには良いも悪いもありません。
そもそも色も匂いもない。
すべてがニュートラルなものです。
ですから、この世ではあらゆる経験が許されているというわけです。

いま一度、陰陽図を見ながら振り返りたいと思います。

白黒がうねる図の中でも、黒の中には白点があり、白の中には黒点があります。
白と黒とが流れ流れて変幻していく一方で、それぞれの中心の一点で白黒が逆転しています。

これは、どれだけ白く見えても100%の白というものは有りはしない、何ごとにも必ず正反対の因子が存在しているということを現すとともに
その一点で裏表が繋がっていることを示唆しています。

白黒をあの世とこの世に置き換えたならば、その中にあって裏表を繋ぐ点は、私たち自身となります。
この世においてあの世と繋がるヘソとなっているのが私たちであり、またあの世においてこの世と繋がるヘソになっているのも私たちという
ことです。


そこを流れていくものはこの世の経験であり、私たちとはそれを通す柱であるわけです。


あらゆる経験がオーケーであるはずなのに、私たちは何故それを自制してしまっているのでしょうか。

遥かな昔、私たちのご先祖様たちは集団生活や社会生活をうまくやっていくために、混乱を無くすための規律や道徳を設けました。

もともと我欲に押し流されることがなければ、和を乱すような欲求は生じませんので、他人から物を奪ったり傷つけたりするようなことは
起きもせず、自然に調和が生まれるものです。

初めからそれが当たり前の世界であれば無垢な子供はそのように育つでしょうが、この世界はそうではありませんでした。
そのため、この世の我欲に毒されないように規律規則が必要となりました。

そして規律規則だけにとどまらず、様々な決まりごと、価値観、信条、理想、規範、世間体、思い込み、恐怖、不安、といったものまで
抱え込まされてしまったためにややこしいことになってしまいました。

本来これらは分別がつくようになるまでの単なる方便ですから、年齢とともに手離していくものであったはずです。
しかし残念ながら、そうしたものが三つ子の魂百までとなってしまい私たちは手放せなくなってしまいました。

あらためて冷静に見てみますと、こうした決めごとのどれもが自然界に存在するものではありません。
私たちが勝手に作って、勝手に引き継いできたものです。

もちろん、このアミューズメントパークはそういうルールだと分かった上でその窮屈感を楽しんでいる部分もあります。
ここまで縛られた厳しい状況での苦労を楽しみたいという確信犯的な側面もあるかもしれません。

実際のところがどうなのかは人それぞれですし、人生のタイミングもあるでしょうから、それを十把ひとからげに言うことはできません。
苦労をしたくてやっている人も居れば、そうではないのにそこに溺れてしまっている人も居ることでしょう。

そのどちらの状態にあるのか頭で考えても分かるものではありません。
むしろ頭こそが様々な決めごとに縛られていますので、そこを使ってしまうと答えに辿り着くのは無理と言えるでしょう。

本当はやりたい苦労をやっているだけなのにそこから逃げようとするのは悲劇ですし、逆にもっと他の可能性を味わうチャンスなのにそれを
やれないのも悲劇です。

そのどちらかに在るかは自我が決めることではなく、真我の大河の流れに乗ることで自然と為るように為っていくものです。

そうであるならば、自我に寄り添う私たちが意識して出来ることは「答えがどっちなのか探す」ことではなくて「その大河の流れを邪魔立てする
ような決めごとや思い込みを取り払う」
ことではないでしょうか。

それはつまり、最初から決めつけない、行動や選択以前の思い込みを無くす、ということです。

そしてこの世が不自由な世界であるのは、やはり私たちがそう決めてしまっているからです。
しかし、実際はあの世こそ不自由な世界だと言えます。

あの世というのは、結局「変わらない」、結局「同じ」ままな世界です。
波立ちが無い世界というのは、良く言えば安心安定ですが、悪く言えば平凡退屈です。

この世界は、仮初めの創りものかもしれませんが、ここでは変化を味わうことができます。
ココは、変化する自由に溢れています。

この世こそ自由自在であるのです。

私たちは何をやってもいいし、何でも出来るようになっています。
悩むのも自由、喜ぶのも自由ということです。

だから喜んだ方がいい、とは言いません。
何をしても自由ですし、そもそも何が良い悪いということも有りはしません。

ただ一つだけハッキリしていることがあります。

今ココで「安心安定を求めて日々の不自由を我慢する」というのはトンチンカンだということです。

あの世は「安心安定しかないため日々が不自由だった」わけです。
だから私たちはそれと違うものをやりに、この世に来ています。

あの世がまったくの不自由というのは夢も希望もない話で、救いようがないと思うかもしれません。
でも、だからこそこの世というものがいかに凄いかを知り、そしてそこで何をやるか真剣に考えるようになります。

死んでからでは遅い。
後悔したところで、あとの祭り。
この世のことを考えるのは、まだこの世に居る「いま」なのです。


この世というのは、そもそも変化するのが当たり前な世界です。
なぜ変化するのか?といえば、それはあの世が変化しない世界だからです。

不変とは不自由のことであり、変化というのは自由自在のことです。

それを味わいに来ているのに、今の生活が変化しないように必死に踏ん張って挙げ句の果て心を苦しめるというのでは、それこそせっかく
この世に生まれてきたのに何をやっているのか意味不明というものです。


いま目の前の「現実」というのは、どこまでいっても副次的なものでしかありません。
それは「結果」として現れているに過ぎません。
いわば幻想の世界、砂上の楼閣のようなものです。
それを「守ろう」とすることは、必然的に自分自身を苦しくさせることになります。

もちろん現実は大事なものですから軽んじてはいけません。
ただ、軽んじないということと、大事にしすぎて自分自身を押し殺してしまうことは全く意味が違います。
それは固執でしかありません。

私たち自身がリアルな存在であるというのに、そちらが傷つくことを捨て置いて非現実な幻想の方を一生懸命に守ろうとする…
それをもって「守る」と捉えてしまうとおかしなことになってしまいます。

そして「守る」の反対語として「攻める」という言葉を想起してしまうと、たとえば仕事を辞めたり、好きに生きるのがチャレンジングで
リスキーなことであるかのように思い込んでしまうことになります。

たしかにそのイメージを抱いたまま飛び降りると、本当に心配した通りの現実を創り出すことになりますので、そのような人たちを見て
しまうと私たちはますます小市民と化してしまいます。

上手くいくほうがたまたまラッキーなだけ、普通は失敗するもの、リスキーな人生で苦労するくらいなら今この生活の方がまだ我慢できる、
となってしまうとまさに、出るも地獄、戻るも地獄と化します。

ひとたびそうなると「失敗した人たちの方がたまたまアンラッキーだった」と思うことは無くなります。

本当は失敗も成功もどちらもイーブンなはずなのに、何故か成功することのほうがレアケースのように思えてしまう。
もしかしたら失敗した人たちの方がレアケースかもしれないのに、まるで催眠術にでもかけられたかのように私たちはそうではないと確信
してしますわけです。

私たちは真に自由自在な世界に居るのに、何故かそんなはずはないという思い込みを植え付けられてしまっています。

もしかしたらそれは、まわりがすべて黒に見えてしまっているからなのかもしれません。
まわりが黒だから私たちも黒に違いないと。

しかし私たちは、真裏の白をすべて凝縮した存在です。
この黒の中にあって私たちは白の先端の点です。

真裏に広がる白とは私たちそのものであり、逆にあの世においては真裏に広がる黒、すなわち
この世というものが私たちそのものであります。


時や場所、まわりの世界に関係なく、私たちという存在そのものが自由自在であるわけです。



(つづく)

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