これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

心のそよ風

2015-06-27 15:00:09 | 体をラクに
早いもので、もう一年の半分が過ぎようとしてます。

途中に4月を挟むとそこで気持ちが一新されてしまいますので、余計にピンとこないところです。
春夏秋冬という言葉のイメージからしても、夏も来てないのに半分は無いだろうと思ってしまいますが、
実際は夏が終わると、残りはたった3ヶ月しかないんですよね。
毎年後半があっという間な感じがするのは、そういうところにあるのかもしれません。

さて、半年の節目ということで、今日は大祓いについて触れてみたいと思います。

日本にはお祓いという習慣があります。
普段の生活の中で知らず知らずのうちに身につけてしまった罪・穢れを祓い落とすというものです。

心が翳(かげ)ると、氣の通りが悪くなります。
氣が枯れることから「ケガレ」(氣枯れ)となりました。
氣が枯れると、色々なものに対して無防備になります。
場合によっては、こちらの方からそうしたものを引き寄せてしまうこともあります。
お祓いと言うと、外から受けた邪気を取り除くようなイメージがありますが、本来は、その根本原因で
ある自らの氣が枯れた状態を清らかにすることであるわけです。

ただ、氣が枯れていたり邪気を受けている状態というのは、自分ではあまり気づけなかったりします。
どんなに嫌な感覚であっても、少しずつの変化でそこに至った場合、私たちはなかなかそのことに気
がつきません。
「カエルを水につけて少しずつ煮立てると、沸騰しても気づかないまま生きている」というジョークが
ありますが、まさにそれです。
そして我執に囚われてしまうと、まわりが見えなくなりますのでなおさら変化に気がつけなくなります。
そうして、いつの間にか心は翳りに翳り、気持ちは小さく縮こまり、氣は枯れてしまいます。
そこで魔がさしたり、邪気に差し込まれたりしてしまうということです。

「知らず知らずのうちに身につけてしまった罪穢れ」というのは、まさにこのことを指しています。

氣枯れが酷くなると、本当の病気になってしまいます。
病気もまた、ほんの少しずつの不調の積み重ねであるため、なかなか気がつけないわけです。

心の翳りをサーッと綺麗にするには、実際に身体動作を伴うアクションが有効です。
この世は、行動の世界です。
頭の中でただ考えたり想像を描くよりも、実際に身体を動かすことが遥かに心身に響き渡ります。

このため神道では年に2回。6月末と12月末に大祓いという形で、心身を一掃します。

人の形をした紙を形代(かたしろ)と言いますが、この形代で頭のてっぺんから順番に「祓い給へ、
清め給へ」と言いながら、全身を撫でていきます。

人形を自分の写し身とするのは、身代り地蔵などにも見られるものですが、あくまで転写というのは
第一義的もので、むしろ第二義的なものの方に真の大祓いの意味があるように感じます。

実際に形代で撫でながら自分の身体の一つ一つへ心を向けるとハッとさせられます。
何となく上から下へとアバウトに撫でてしまいがちですが、そこは心を静めて、一つ一つ落ち着いて
やってみます。

頭のてっぺんから、頭皮や毛穴、おデコ、眉毛、まつ毛、目、そして鼻、口、歯、舌、喉、耳、耳の中、
頭の中の脳・・・
と一つ一つに心を向けていきます。
それぞれ、ほんの一瞬、意識するだけです。

これにより、形代に写すというだけではなく、そこへ心を向けるという行為となります。
一瞬でも心を向けることで、そこへスッと天地の氣を通すことになります。

この時にハッとするのが、今の今までその存在すら忘れてしまっていた箇所が、いかに多かったかと
いうことです。

たとえば目や口、心臓や胃腸などは普段からそれとなく意識できている部分であるのに対して、肺や
腎臓、肝臓などは、ほとんど意識に無かったことに気づくわけです。
そして、その部分にフト心を向けた瞬間に、何かかがサーッと風のように流れていくのを感じます。
普段から馴染み深いはずの手の指ですら、一本一本を撫でていくと、その一本ごとにサーッと通って
いく感覚があります。

形代で撫でるという先人の知恵は、まさにそこにあったのではないかと思います。
もちろん転写という意味もあるのでしょうが、それとともに自分の心を向けるということにとても大きな
意味を感じます。
形代を撫でながら、一つ一つにスーッと何かが通った瞬間、「清められる、祓われるとはこういうこと
なんだ」と感じると思います。

何であれ、ほかの誰かの力に頼りきって救われるということはあり得ず、そこに自分の行為と思いが
あってこそ、それが示現します。
もちろん、自分の力だけで何でもできるということではありません。
このあとに神職の方々が丁寧なお勤めをして下さることで、大祓いは完結します。
地に足をつけて歩くとともに、自分の健康を祈って下さる方々や、目に見えないおかげさまへの感謝
が大切です。
事実、祈りのエネルギーというものは間違いなく天地へ届くものです。

そして、心を向けるというのは、これほどまでハッキリしたものです。
ということは、自分に対してだけでなく、他者に対しても同じことが言えるということです。
心を向けることで風が吹き、交流が生まれることになります。

心の風通しが良くなると、身体の風通しも良くなります。
そうして体調も良くなります。
同じように、自分のまわりに対しても、ただ心をスッと通すだけで風通しが良くなり、雰囲気が変わり、
状況も変わります。

心から吹く風というのは、それほどまでに明らかなものです。
すごいエネルギーなのです。

大祓いで唱えられる大祓詞の中に、祓戸四神が登場しますが、神様の罪穢れすらも祓い落とす祓戸の
大神様の中に、気吹戸主(いぶきどぬし)という神様がおられます。
お祓いの場面では、まがまがしいことや罪穢れを、川から海へ、そして海の底から根の国・底の国へと
うつしていって最後は昇華させるという、まさに天地宇宙の循環システムがそのままに謳われています
が、その中で気吹戸主は根の国・底の国へと「いぶく」(氣吹く、息吹く)お役目を受け持っておられます。

根の国・底の国とは、あの世とも解釈されますが、要するに目に見えない非物質世界のことです。
濁らせてしまったものをそこで昇華させて、本来の天地自然の状態に戻すというわけです。
決して消滅させたり、排除したりするのではないということです。

この神様のエネルギーが、私たちの中にもあるということを思います。
クリアな心は爽やかな風を吹かせます。
その心を向けただけで、サーッと天地の氣が吹き抜けます。
それが「氣吹き」(いぶき)であるわけです。

半年に一度の大祓いは、私たちの心や身体に知らず知らずのうちに付いてしまった穢れを祓い、枯れ
た氣を生き生きと蘇らせます。
先人の遺した知恵は、どこまでも深いものです。

そしてまた、知らず知らずのうちにそのようになってしまっている氣枯れ(ケガレ)というものは、我が身
だけでなく自分のまわりに対しても起こしてしまっているとも言えます。

せっかくの機会ですから、自分自身に対してだけでなく、そうしたまわりのモヤモヤしているものへも
爽やかな心を向けてみてはどうでしょうか。

大祓いとは、大掃除でもあります。

何かをしようなどと気負う必要はありません。
ただスッと心を向けるだけです。
それで、もうサーッと通ってます。
もし何も感じなくても、そうなってるから大丈夫です。
神社に行けなくとも、それで十分です。

そして、実はそうした一つ一つが、この国の大地や、その先までへと繋がっていきます。

ただそれはあくまで結果ですので、大地や地球のことを浮かべながらやるものではありません。
本末転倒になってしまいます。

心を向けることは、そのままサラサラと光の粒子になります。
そこで光を感じることはあっても、あらかじめ光をイメージしながら行なうものではありません。
心をクリアにするだけ。
「考えごと」をせずに、スッと心を向けるだけで爽やかな風がサーッと吹き抜けていきます。

私たちの心は、天の氣吹き(いぶき)そのものです。

今は、ただ目の前のことだけに心を向けて、スーッと気持ちが軽やかになることを感じてみましょう。



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