仕事や生活がギュウ詰めラッシュでシンドくなってしまうと、頭も心もカチンコチンに固まってトホホの境地になるものです。
「ずっとこんな状態だし、自分はもうこんな自分になってしまった、これからもずっとそうに違いない」
なんて気持ちにならないように、今日はリフレッシュをテーマに進めていきたいと思います。
中学や高校に新入生として入学したての頃のことは覚えてますでしょうか。
何があったとか細かいことはサッパリですが、その時の感覚というか心持ちは何となく思い出せるのではないかと思います。
初めての学校。初めての環境。
どこに何があるのか。これから何が起きるのか。
ゲタ箱や階段、トイレ。
一年は何階で、二年は何階。
最上級の三年なんて出来れば会いたくない。
グランドや体育館の場所。
みんな知らないことばかり。
クラスもお互い知らない同士。
このあと授業がどう進んで行くのか、放課後はどうなるのか。
何もかも手探り状態です。
未知に対するハラハラ、ドキドキ。
未知に対するフワフワ、ワクワク。
軽い緊張感。地に足つかぬ期待感。
そして内から湧き上がる高揚感。
他の記憶はすっかり忘れてしまっても、こうした感覚はハッキリと思い出せます。
もういい歳のオジさんオバさんが今さら中高生の記憶なんて恥ずかしい、なんて思ったら勿体ない話です。
この世において肉体は老いさらばえていくものですが、心というのは一歳たりとも老けるものではありません。
なのに、何を好きこのんで自ら老けこむ必要があるのかということです。
もちろん、この世は鏡の世界です。
目に見えるモノとの交流が波紋となって、目に見えない部分が波揺れていきます。
目に見えるモノは変化をしていきます。
ですから、目に映るモノに心が引っ張られても仕方のないところではあります。
でも、目に見えない部分というのは、ありてあるもの。初めから何も変わっていません。
私たち自身は、初めから変わらず、今ココに在り続けています。
外からの刺激によって波が生じ、様々な悦びを感じています。
夢のワンダーランドに入り込み過ぎると、鏡に映るモノと私たち自身が同じものであるかのように信じ込んでしまいます。
しかし実際は、それはそれ、これはこれであるわけです。
肉体が老いていこうとも、私たち自身は生まれたての赤子の時と何ひとつ変わっていません。
「変わっていないとおかしい」「成長していないと恥ずかしい」というのは頭だったり立ち居振る舞いだったり、つまりは知識や習慣のことで
あって、心の部分はそれとは別の話です。
若い頃に気持ちを戻すのは恥ずかしいことでも何でもなく、むしろそれが当たり前というか、本来は何歳になろうともその若い心地のままに
あってしかりなのです。
その証拠に、その頃の感覚を思い出そうとすれば誰だって鮮明に蘇るはずです。
脳記憶は戻らなくとも心の感覚はすぐに戻る。
年老いても昔の友達に会えば一瞬であの頃に戻る。
いい歳をしてなんて言うほうが野暮というものです。
あの人、気が若いわねぇ、なんて他人事のように言うこと自体、ツッコミどころ満載なわけです。
空気感や肌感というものは色あせることはありません。
今だって、入学や卒業、文化祭といったイベントごとの感覚は鮮烈に覚えているものです。
年齢を感じさせない若々しい人というのは、その頃と変わらぬ感覚のままに生きていると言えます。
私たちは、年齢とともに役割や立場というものが付いてきます。
鏡に映る自分がタキシード姿であれば、無意識のうちにそれに合わせた立ち居振る舞いになっていきます。
それ自体はごく自然なことなので否定するものではありません。
ただ、それはあくまで鏡に映る自分、見た目の自分だけの話であって、今ココに在り続けている「私たち自身」までが蝶ネクタイに縛られて
ピシッとなっているわけではないということです。
それは、たとえばディズニーランドでファンタジーな仮装をしてまわりと交流を楽しむのと、とてもよく似ています。
育ちが良ければそういう服装や物腰になりますし、逆であるならば粗暴な雰囲気になっていきます。
両親の期待に沿うような真面目で聞き分けの良い自分像にもなりますし、何ら期待もされぬ粗野で遣りたい放題の自分像にもなります。
それはそれ、自分の立場に応じて、この世での自分のスタイル、スタンス、居場所というものを手探りで作り上げ、ホッと腰を据えているに
過ぎません。
こんな自分は嫌だと思っても、それは着ぐるみを嫌だと言っているだけのことなのです。
ディズニーランドと実生活との違いは、それが本当はその場その瞬間だけのもの、限定的なものに過ぎないことをしっかり自覚しているかどうかの
差でしかありません。
どんな仮装をしても遊園地を出ればたちまち素に戻ります。
いつまでもそれを現実世界で引きずることはありません。
なぜならば、本当の自分が別物であることを知っているからです。
実生活にしても同じです。
これまで慣れ親しんできたパターン、慣れ苦しんできたパターンというのは単なる仮装に過ぎません。
本当の自分が別物と知っていればサッサと脱ぎ捨てられるということです。
もちろん、仕事にしても同じ。
仮装に興じるように仕事に徹する。
それはそれで全然OKでしょう。
そして会社を出ればそこには素の自分がいる。
何が言いたいかというと、本当の自分と、よそ行きの自分をゴッチャにすると苦しくなるということです。
確かに、よそ行きの格好などせずに、どこにあろうと素の自分で居られればそれが一番ラクかもしれません。
でも、そんな無い物ねだりをしたところで苦しさが増すだけです。
それが叶うに越したことはありませんが、それよりも「よそ行きの格好というのはディズニーランドに行くようなもんだ」と割り切ったほうが
よっぽど楽しめるというものです。
どうせこの世を離れれば、どこまでも広がる大きな私たち自身がいるわけです。
会社なんてのは、この世の暮らしの中でのほんの一部。たかだか氷山の一角にすぎない、遊園地の仮装パレードです。
それはそれでイイのです。
ただ、仮装パレードは、それが仮装であるとハッキリ自覚しているからこそ楽しめるものです。
カボチャのお面やネズミの着ぐるみが本当の自分だと思い込んでしまうと、これは悲劇以外の何ものでもないでしょう。
会社に入った頃の私たちはどんな気持ちだったでしょうか。
社会人になりたての小っ恥ずかしさ、ハラハラ、ドキドキ。
それは中高生になりたての、あの頃と変わらなかったはずです。
いま一度、新入生だったあの日に戻ります。
教室でのフワフワした感じが終わりますと、その次には部活見学がありました。
すでにコレと決めている人も居れば、何も決めてない人も居ました。
とにかくみんな何かしら部活を始めたいと思っていました。
あるいは、そんなにヤル気は無かったものの必修だったから仕方ないという人も居たでしょう。
いずれにせよ、新しい何かをやることに対して期待と不安を抱きつつ、わけもわからないまま始めたのでした。
最初のうちは知らないことだらけで、緊張したり汗かいたり、それは大変なものでした。
先輩はやたらと歳上に見えますし、先生などはもはや異世界の存在でした。
ガツンと怒られればガックリ落ち込み、部活に行くのが嫌になったり、このシンドさがいつまで続くのかと思い悩んだりしました。
とはいえ、そんな日々ばかりでもなく、ごくたまに幸せを感じることもあったり、楽しさを感じることもありました。
そのうち、場所や雰囲気、人に慣れてきますと、先輩にも色々な先輩が居ること、意外と子供っぽいこと、先生だって自分たちと大して変わら
ない、単なる歳上なんだと分かってくるのでした。
そうして慣れに慣れてきますと、部室でダベったり、喫茶店に寄り道をしたりと自分たちの世界がハッキリくっきり作り上げられていきました。
良いこともツラいこともごちゃ混ぜな日々。
それは今思うと、本当に楽しいことばかりで、何と言っても限定されるがゆえに安全な世界だったことが分かります。
しかしそんな世界でも、当時はそれが私たちの世界の全てでした。
どこまでも広く大きく、そして悩み多き世界に思って居たのでした。
ひるがえってみて、今の日々というのはどうでしょうか。
例えばサラリーマン生活ならばどうでしょう。
取引先からはグサグサ刺されるような交渉を迫られ、上司からは滝のように仕事を回され、社内では全方位のあらゆる部署から突き上げを喰らう。
四方八方から満員ラッシュの圧が掛かり、自分はケシ粒のように押し潰される。
それでも自分は自分でありたいと、抵抗して押し返そうとする。
そうして、潰され押し返す日々に、身も心も窮々に疲弊していきます。
職場の空間に身を置くだけでツラい。
上司や顧客と会うだけでツラい。
心の休息もなく息が詰まっていく。
多くのサラリーマンはそのような状態になっています。
でも頭を一度リセットして、先ほどの高校時代の部活の話を読み返してみて下さい。
ただし、同じ文章ですが、それを会社に置き換えてです。
そうしますと、その当時はそれしか見えずに泣き笑い苦悩していましたが、そこを過ぎてみれば全ては期間限定でエリア限定の良い思い出という
ことが分かってきます。
サラリーマン生活なんて、高校の部活と何ら変わらない。
あのころ自分よりも遥か年上に見えていた先輩たちも、今思えばたかだか一つ二つしか離れてないガキンチョだった。
でも、その時には間違いなく大きく見えた。
おんなじことです。
会社の上司。あるいは役員や社長。
今は遥かに格上の存在に見えるかもしれませんが、たかだか10歳やそこらの年の差でしかない。
そんなのは、あと20年もすれば分かります。
まさに部活で見上げた先輩たちと何ら変わらないのです。
高いモチベーションで入った部だろうと、イヤイヤ入った部だろうと、どの部もみんなで何かを成し遂げようとしていました。
会社も同じです。
どんな思いで入社したにせよ、その部活仲間はみんなで何かを成し遂げようとしているわけです。
一つの目標に向かって頑張っていた部活動。
あの時の気持ち、雰囲気。
会社だとか仕事だとか考えるから麻痺してしまうだけ。
あまりに長いこと浸かっていると忘れてしまうのは当然です。
麻痺したこと自体が問題なのではなく、その状態に慣れてしまっていることが問題なのです。
仕事なんて部活に行くようなもん。
上司にしたって部活の先輩みたいなもん。
職場なんてのは部室に過ぎないわけです。
足取り重く考えることはありません。
部活のために部活しているのではない。
仕事のために仕事をしてるのではない。
それが分かれば、たとえ大変な状況にあろうとも、心はフッと軽くなるのではないでしょうか。
部活だって、その時は十分大変でした。
でもみんなで頑張りました。
仕事だって部活みたいなもんです。
失敗したって負けたって大したことではない。
評価されなくたってボロカス言われたって大したことはない。
だってこれは単なる部活動なんですから。
それで自分の人生が終わるわけではない。
それが自分の人生の全てではない。
学校生活の頃は、それが世界の全てのように思い込んでました。
でも学校生活なんて世界の一部でしかないのが、今ではとてもよく分かります。
サラリーマン生活だって同じです。
私たちの世界の一部でしかない。
部活に毛が生えたようなものでしかないわけです。
もっと気楽に、もっと肩の力を抜いて、今の苦労に立ち向かえばいい。
たかだか部活程度に、心底思い悩み、苦しむことなんてないのです。
たとえギュウ詰めラッシュに遭っても、そんなのは狭い世界の話。
それが世界の全てなんかではない。
それが永遠に続くことなんかない。
今の苦しみをそのまま苦しんでいれば、必ず、景色は変わっていきます。
ほっといても私たちは歳を取っています。
心は変わらずとも容器は変わっていく。
まわりの環境は変わっていくものです。
環境が変われば必ず展開は変わっていきます。
景色とは必ず変わるものなのです。
長く思えた高校生活も、今思えば、たった3年でしかありません。
たったの3年です。
今この時だけしか味わえない景色。
オジさんだろうと子供だろうと、そのことに何の変わりもありません。
「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候」
つまりは、そういうことなのです。
(まだつづく、かも)
「ずっとこんな状態だし、自分はもうこんな自分になってしまった、これからもずっとそうに違いない」
なんて気持ちにならないように、今日はリフレッシュをテーマに進めていきたいと思います。
中学や高校に新入生として入学したての頃のことは覚えてますでしょうか。
何があったとか細かいことはサッパリですが、その時の感覚というか心持ちは何となく思い出せるのではないかと思います。
初めての学校。初めての環境。
どこに何があるのか。これから何が起きるのか。
ゲタ箱や階段、トイレ。
一年は何階で、二年は何階。
最上級の三年なんて出来れば会いたくない。
グランドや体育館の場所。
みんな知らないことばかり。
クラスもお互い知らない同士。
このあと授業がどう進んで行くのか、放課後はどうなるのか。
何もかも手探り状態です。
未知に対するハラハラ、ドキドキ。
未知に対するフワフワ、ワクワク。
軽い緊張感。地に足つかぬ期待感。
そして内から湧き上がる高揚感。
他の記憶はすっかり忘れてしまっても、こうした感覚はハッキリと思い出せます。
もういい歳のオジさんオバさんが今さら中高生の記憶なんて恥ずかしい、なんて思ったら勿体ない話です。
この世において肉体は老いさらばえていくものですが、心というのは一歳たりとも老けるものではありません。
なのに、何を好きこのんで自ら老けこむ必要があるのかということです。
もちろん、この世は鏡の世界です。
目に見えるモノとの交流が波紋となって、目に見えない部分が波揺れていきます。
目に見えるモノは変化をしていきます。
ですから、目に映るモノに心が引っ張られても仕方のないところではあります。
でも、目に見えない部分というのは、ありてあるもの。初めから何も変わっていません。
私たち自身は、初めから変わらず、今ココに在り続けています。
外からの刺激によって波が生じ、様々な悦びを感じています。
夢のワンダーランドに入り込み過ぎると、鏡に映るモノと私たち自身が同じものであるかのように信じ込んでしまいます。
しかし実際は、それはそれ、これはこれであるわけです。
肉体が老いていこうとも、私たち自身は生まれたての赤子の時と何ひとつ変わっていません。
「変わっていないとおかしい」「成長していないと恥ずかしい」というのは頭だったり立ち居振る舞いだったり、つまりは知識や習慣のことで
あって、心の部分はそれとは別の話です。
若い頃に気持ちを戻すのは恥ずかしいことでも何でもなく、むしろそれが当たり前というか、本来は何歳になろうともその若い心地のままに
あってしかりなのです。
その証拠に、その頃の感覚を思い出そうとすれば誰だって鮮明に蘇るはずです。
脳記憶は戻らなくとも心の感覚はすぐに戻る。
年老いても昔の友達に会えば一瞬であの頃に戻る。
いい歳をしてなんて言うほうが野暮というものです。
あの人、気が若いわねぇ、なんて他人事のように言うこと自体、ツッコミどころ満載なわけです。
空気感や肌感というものは色あせることはありません。
今だって、入学や卒業、文化祭といったイベントごとの感覚は鮮烈に覚えているものです。
年齢を感じさせない若々しい人というのは、その頃と変わらぬ感覚のままに生きていると言えます。
私たちは、年齢とともに役割や立場というものが付いてきます。
鏡に映る自分がタキシード姿であれば、無意識のうちにそれに合わせた立ち居振る舞いになっていきます。
それ自体はごく自然なことなので否定するものではありません。
ただ、それはあくまで鏡に映る自分、見た目の自分だけの話であって、今ココに在り続けている「私たち自身」までが蝶ネクタイに縛られて
ピシッとなっているわけではないということです。
それは、たとえばディズニーランドでファンタジーな仮装をしてまわりと交流を楽しむのと、とてもよく似ています。
育ちが良ければそういう服装や物腰になりますし、逆であるならば粗暴な雰囲気になっていきます。
両親の期待に沿うような真面目で聞き分けの良い自分像にもなりますし、何ら期待もされぬ粗野で遣りたい放題の自分像にもなります。
それはそれ、自分の立場に応じて、この世での自分のスタイル、スタンス、居場所というものを手探りで作り上げ、ホッと腰を据えているに
過ぎません。
こんな自分は嫌だと思っても、それは着ぐるみを嫌だと言っているだけのことなのです。
ディズニーランドと実生活との違いは、それが本当はその場その瞬間だけのもの、限定的なものに過ぎないことをしっかり自覚しているかどうかの
差でしかありません。
どんな仮装をしても遊園地を出ればたちまち素に戻ります。
いつまでもそれを現実世界で引きずることはありません。
なぜならば、本当の自分が別物であることを知っているからです。
実生活にしても同じです。
これまで慣れ親しんできたパターン、慣れ苦しんできたパターンというのは単なる仮装に過ぎません。
本当の自分が別物と知っていればサッサと脱ぎ捨てられるということです。
もちろん、仕事にしても同じ。
仮装に興じるように仕事に徹する。
それはそれで全然OKでしょう。
そして会社を出ればそこには素の自分がいる。
何が言いたいかというと、本当の自分と、よそ行きの自分をゴッチャにすると苦しくなるということです。
確かに、よそ行きの格好などせずに、どこにあろうと素の自分で居られればそれが一番ラクかもしれません。
でも、そんな無い物ねだりをしたところで苦しさが増すだけです。
それが叶うに越したことはありませんが、それよりも「よそ行きの格好というのはディズニーランドに行くようなもんだ」と割り切ったほうが
よっぽど楽しめるというものです。
どうせこの世を離れれば、どこまでも広がる大きな私たち自身がいるわけです。
会社なんてのは、この世の暮らしの中でのほんの一部。たかだか氷山の一角にすぎない、遊園地の仮装パレードです。
それはそれでイイのです。
ただ、仮装パレードは、それが仮装であるとハッキリ自覚しているからこそ楽しめるものです。
カボチャのお面やネズミの着ぐるみが本当の自分だと思い込んでしまうと、これは悲劇以外の何ものでもないでしょう。
会社に入った頃の私たちはどんな気持ちだったでしょうか。
社会人になりたての小っ恥ずかしさ、ハラハラ、ドキドキ。
それは中高生になりたての、あの頃と変わらなかったはずです。
いま一度、新入生だったあの日に戻ります。
教室でのフワフワした感じが終わりますと、その次には部活見学がありました。
すでにコレと決めている人も居れば、何も決めてない人も居ました。
とにかくみんな何かしら部活を始めたいと思っていました。
あるいは、そんなにヤル気は無かったものの必修だったから仕方ないという人も居たでしょう。
いずれにせよ、新しい何かをやることに対して期待と不安を抱きつつ、わけもわからないまま始めたのでした。
最初のうちは知らないことだらけで、緊張したり汗かいたり、それは大変なものでした。
先輩はやたらと歳上に見えますし、先生などはもはや異世界の存在でした。
ガツンと怒られればガックリ落ち込み、部活に行くのが嫌になったり、このシンドさがいつまで続くのかと思い悩んだりしました。
とはいえ、そんな日々ばかりでもなく、ごくたまに幸せを感じることもあったり、楽しさを感じることもありました。
そのうち、場所や雰囲気、人に慣れてきますと、先輩にも色々な先輩が居ること、意外と子供っぽいこと、先生だって自分たちと大して変わら
ない、単なる歳上なんだと分かってくるのでした。
そうして慣れに慣れてきますと、部室でダベったり、喫茶店に寄り道をしたりと自分たちの世界がハッキリくっきり作り上げられていきました。
良いこともツラいこともごちゃ混ぜな日々。
それは今思うと、本当に楽しいことばかりで、何と言っても限定されるがゆえに安全な世界だったことが分かります。
しかしそんな世界でも、当時はそれが私たちの世界の全てでした。
どこまでも広く大きく、そして悩み多き世界に思って居たのでした。
ひるがえってみて、今の日々というのはどうでしょうか。
例えばサラリーマン生活ならばどうでしょう。
取引先からはグサグサ刺されるような交渉を迫られ、上司からは滝のように仕事を回され、社内では全方位のあらゆる部署から突き上げを喰らう。
四方八方から満員ラッシュの圧が掛かり、自分はケシ粒のように押し潰される。
それでも自分は自分でありたいと、抵抗して押し返そうとする。
そうして、潰され押し返す日々に、身も心も窮々に疲弊していきます。
職場の空間に身を置くだけでツラい。
上司や顧客と会うだけでツラい。
心の休息もなく息が詰まっていく。
多くのサラリーマンはそのような状態になっています。
でも頭を一度リセットして、先ほどの高校時代の部活の話を読み返してみて下さい。
ただし、同じ文章ですが、それを会社に置き換えてです。
そうしますと、その当時はそれしか見えずに泣き笑い苦悩していましたが、そこを過ぎてみれば全ては期間限定でエリア限定の良い思い出という
ことが分かってきます。
サラリーマン生活なんて、高校の部活と何ら変わらない。
あのころ自分よりも遥か年上に見えていた先輩たちも、今思えばたかだか一つ二つしか離れてないガキンチョだった。
でも、その時には間違いなく大きく見えた。
おんなじことです。
会社の上司。あるいは役員や社長。
今は遥かに格上の存在に見えるかもしれませんが、たかだか10歳やそこらの年の差でしかない。
そんなのは、あと20年もすれば分かります。
まさに部活で見上げた先輩たちと何ら変わらないのです。
高いモチベーションで入った部だろうと、イヤイヤ入った部だろうと、どの部もみんなで何かを成し遂げようとしていました。
会社も同じです。
どんな思いで入社したにせよ、その部活仲間はみんなで何かを成し遂げようとしているわけです。
一つの目標に向かって頑張っていた部活動。
あの時の気持ち、雰囲気。
会社だとか仕事だとか考えるから麻痺してしまうだけ。
あまりに長いこと浸かっていると忘れてしまうのは当然です。
麻痺したこと自体が問題なのではなく、その状態に慣れてしまっていることが問題なのです。
仕事なんて部活に行くようなもん。
上司にしたって部活の先輩みたいなもん。
職場なんてのは部室に過ぎないわけです。
足取り重く考えることはありません。
部活のために部活しているのではない。
仕事のために仕事をしてるのではない。
それが分かれば、たとえ大変な状況にあろうとも、心はフッと軽くなるのではないでしょうか。
部活だって、その時は十分大変でした。
でもみんなで頑張りました。
仕事だって部活みたいなもんです。
失敗したって負けたって大したことではない。
評価されなくたってボロカス言われたって大したことはない。
だってこれは単なる部活動なんですから。
それで自分の人生が終わるわけではない。
それが自分の人生の全てではない。
学校生活の頃は、それが世界の全てのように思い込んでました。
でも学校生活なんて世界の一部でしかないのが、今ではとてもよく分かります。
サラリーマン生活だって同じです。
私たちの世界の一部でしかない。
部活に毛が生えたようなものでしかないわけです。
もっと気楽に、もっと肩の力を抜いて、今の苦労に立ち向かえばいい。
たかだか部活程度に、心底思い悩み、苦しむことなんてないのです。
たとえギュウ詰めラッシュに遭っても、そんなのは狭い世界の話。
それが世界の全てなんかではない。
それが永遠に続くことなんかない。
今の苦しみをそのまま苦しんでいれば、必ず、景色は変わっていきます。
ほっといても私たちは歳を取っています。
心は変わらずとも容器は変わっていく。
まわりの環境は変わっていくものです。
環境が変われば必ず展開は変わっていきます。
景色とは必ず変わるものなのです。
長く思えた高校生活も、今思えば、たった3年でしかありません。
たったの3年です。
今この時だけしか味わえない景色。
オジさんだろうと子供だろうと、そのことに何の変わりもありません。
「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候」
つまりは、そういうことなのです。
(まだつづく、かも)