体調が悪い時というのは、足取りがとても重くなるものです。
先日まさにそんな状態で駅に向かっていますと、数メートル前に、同じくらいのペースで歩いている人が居ました。
その方は別に体調が悪いわけでもなく、それが普段のペースといった感じでした。
赤信号で追いついた時、フトこのあとどうしようと思いました。
ピタッと間合いを詰めたまま歩くのもバツが悪いですし、かといってわざわざペースを上げて追い抜く体力もなし。
結局スタートをズラして一呼吸ほど出遅れる形にして、さっきまでのペースで行くことにしました。
その直後、歩きだした瞬間に不思議な感覚に包まれました。
フワッと身体が軽い。
足取りが重くない。
一瞬アレ?となりました。
さっきまでとは明らかに違う。
弱っている時というのは感覚が鋭くなるものです。
重い体を青色吐息で動かしていたのが、まるでリニアのようにスーッと動く。
でも、その理由はすぐに分かりました。
それは、自分でも気がつかないまま前方の人の氣にスッと乗っかっていたのでした。
その時のことをもう一度ふり返りますと、もうフラフラな状態で、ひたすら歩くことだけに集中していました。
他に考え事をする余裕もありません。
吹雪の中の登山のように、目の前の一歩を黙々と踏みしめていました。
そんな時フト同じペースで歩く人に気づき、たまたま赤信号で立ち止まった時、心は100%その人に向いた状態となっていました。
そして歩きだしの時もタイミングを開けようと呼吸をはかっていたので、図らずも心はしっかり相手に向いていました。
他には何もない。ただ相手に向いているだけ。
そうしてそのまま無心で歩き出しました。
その瞬間、その人の氣に乗っかったということです。
ここでいう「氣」というのは、その人に吹く風なのでありました。
いきなり結論を書いてしまいましたので、少しだけ補足をします。
出来るだけシンプルな説明を心がけたいと思います。
身体が動く仕組みについて、現代科学ではこう説明されています。
「体を動かそうという意思が起きると、脳の運動野から発せられた電気的な信号が脊髄の運動神経を伝わっていき筋肉が動く」
この説明からいくと、脳がその肉体的な動きを認識するには、神経の伝達速度を考えると、常に0.5秒の遅れが生じてしまうと言います。
しかし、思いが生じてから実際の現象が現れるまで常にズレが生じてしまうと、現実世界の中で不具合が起きてしまう。
そのため、私たちの脳はこの遅れを先取りして、実際に身体が動ききる前に、もう動いたものとして認識するという荒技を行なっているということでした。
以上が科学的な説明です。
それはそれで面白い話ではありますが、これだけだと少々乱暴に思えます。
本当にそんな雑な仕組みで、これまで何十万年も不具合を起さずやってこれたのでしょうか。
この説明にはさらに補足が必要となります。
知覚というのは顕在意識(表層意識)で行われるものです。
0.5秒のズレというのはあくまで物理的な知覚の話に過ぎません。
まずは、意識以前に「感覚」というものが存在することを考える必要があります。
ここでいう感覚というのは神経系の皮膚感覚とは別物の、雰囲気とか空気とかそういう感覚のことです。
意識(表層)というのは頭の分析装置と連動するものですが、感覚というのは無意識(深層意識)へと繋がっていくものです。
感覚とは私たちを包み込むものです。
生じたり消えたりするものでなく、常にそこに在ります。
無意識と同じく、形を持たず、大海の如く氷山の下に無限に広がっています。
ただ、生じたり消えたりはしないものの、開いたり閉じたりはします。
表現を変えれば、微細になったり粗くなったりします。
それ自身が変質するということではなく見え方の問題。伝わり方の問題です。
どこまでも深く広く「存在している」ものの、その透き通り度合いで「現れかた」「見え方」「感じ方」が変わってくるということです。
これは透明度の高い海と透明度の低い海をイメージすると分かりやすいかもしれません。
透明度が低い海はすぐそこまでしか見えませんが、それでも奥底まで海は広がっています。
見えなくとも存在しています。
1m先しか見えないからといって、そこまでしか無いということではありません。
透明度が高かろうと低かろうと、海は変わらずそこに存在しているということです。
感覚や無意識についても同じです。
それらは変質することなく、変わらずそこに存在していますが、キャッチできる範囲というのは透明度によって変化するわけです。
さて、身体を動かす時の仕組みについて補足の途中でした。
信号を送って指示を出したり、動いた結果を認識したりするのは脳です。
ただその知覚の前に、すでに感覚が先行しています。
ここでの感覚というのは、無意識と連動したものでした。
その透明度によって、いわゆるオーラとかエーテル体とかアストラル体とか言われるように、感覚としてキャッチできる範囲が変わっていきます。
この大海はその先どこまでも深く続き、己の魂から集合意識、天地宇宙まで広がっています。
一般的に、エーテル体を氣と呼んだり、アストラル体を心と呼んだりすることもありますが、それは一つの表現でしかありません。
海の深さによって便宜的に呼び方を区分けしてるだけで、海はどこまでいっても海です。
そしてそれら透明度というものは、静まりかたや落ち着きの度合いによって変化します。
リラックスすればするほど、私たちは雑念が消えていき、無の境地になっていきます。
無と言っても何も知覚しないわけではありません。
感覚はより鋭敏になり、まわりの情報をキャッチし、それを理解できる状態にあります。
それというのは、外から触れて得られる情報ではなく、自分がそれと一つになることで内から得られる情報です。
それは同期とも言えるし、シンクロとも言えます。
なんでか分からないけどすでに知っている、という状態になります。
たとえば自分自身の情報というのは、わざわざ頭を介さなくても「すでに知って」います。
他人に説明する時にだけ、頭を介して噛み砕く作業が発生します。
それと同じことが起きるということです。
無の境地とは、雑念が湧か無い状態であり、境界線が無い状態です。
リラックスするほどに透明度は上がり、境界線が薄まり、私たちというものが広がっていきます。
だから、美しい山々や真っ青な海といった大自然に身を置いたり、満点の星空の下で大の字になったり、神社仏閣で手を合わせて日頃の喧騒を
忘れたり、自噴温泉に浸かってボケーっとまどろむのは、とても気持ちが良いのです。
逆に、迷いや不安、こだわりや期待といった我執があると心はガサガサと波立ち、透明度は下がっていきます。
ネガティヴ思考だけでなくポジティブ思考であっても、そこに打算や作為といった我執があると水は濁ります。
己自身の状態によって透明度は変わる。
透明度が変わるというのは、自分の範囲が広がったり狭まったりするということです。
狭まっているというのは、満員ラッシュに押しつぶされてそこしか見えなくなっている状態です。
広がっているというのは、透き通った先まで感覚が広がってまわりが見渡せている状態です。
「心を静めると天地と一体となる」というのはそういうことです。
透明度によって見えるものや感じるものが変わってくる。
つまり、己の状態が感覚を決めているわけです。
身体の動きに話を戻しますと、知覚意識に先行して、水面下の無意識のところでまず氣が動きます。
その流れに乗って身体が動くという順番になっています。
氣とは言わば、風のようなもの。
私たちはヨットのごとく帆を張り、自ら起こした風に帆を押されて進んでいるということです。
その氣が動いた時点で、そこに広がっている無意識はそれを感知しています。
実際の肉体が動いている時にはもう、距離やスピードに関係なく、それより先に無意識は感知しているということです。
そのため0.5秒のタイムラグなど起きないわけです。
ちなみに日本古来の武道は、身体運動のせめぎ合いをトコトンまで追求した結果、神経系の電気信号伝達という物理法則の次元を超えて、無意識
の世界に辿り着きました。
それは何も怪しい話ではなく、宮本武蔵や山岡鉄舟など、あらゆる剣豪が最後は坐禅に行き着いています。
もともと禅は、真理を求めて哲学的アプローチを重ねて行き着いた世界ですが、一方の剣術は死線をくぐりながらさらなる強さを求めて感覚的
アプローチの果てに行き着いた世界です。
それらが全く同じところに行き着いているというのは、まさにこの世の仕組みを表していると言えます。
皮膚感覚の先の先の先にあるのは精妙なる深淵な非物質の世界だったということです。
静まりきった世界、天地へ広がった世界。
そこまで感覚を深めることによって、抑えたり導いたり、制したり投げたり、あるいは「後の先」という発想が生まれました。
他のスポーツであってもプロレベルにもなれば、それと自覚しないままその領域に入っていることもあるのではないかと思います。
感覚に耳を澄ましている時、頭はオフになっています。
そうなると理解したり指示したりできないのかというとそうではありません。
心が開いているので、状況をクリアに理解できるし、ジャッジも出来ます。
このあたりは、例えば幽体離脱したらどういう状態にあるのかという話に通じるものがあります。
透明度が上がり心が広がっていると、そこまで一体となっているので、もう考えなくとも分かってしまっているわけです。
その逆に、あれこれ考えこんだりして頭がオンになると、感覚はどんどん薄まっていきます。
すると透き通った大海はたちまち濁ってしまい、何も見えなくなります。
自分本位の生き方を続けると透明度が下がり、みるみる真っ暗な世界となっていきます。
そうしてますます不安が増すと、安心を求めて我利我利に拍車をかける悪循環が始まります。
本当は最初から変わらず全ては私たちの目の前にある、、、でも何も無いじゃないか?
本当は私たちは天地宇宙の優しい温もりに包まれている、、、でも何も感じないじゃないか?
その迷い、その苦しさというのは、つまりそういうことであったわけです。
海というのは、見えるところまでしか存在しないわけではありません。
透明度がどんなに低くても、海はその先まで広がっています。
母はどこかと不安になる必要はないのです。
暗闇をさらに暗くさせることはないのです。
不安や不足に怯えると、安心したくて自分へスポットライト(思い)を向けてしまいます。
自分、自分、自分と。
そうなるとライトの反対側は暗くなります。
スポットライトを強くすればするほど、その反対側の暗闇は増していきます。
まわりから見ればそうではないのに、自分から見ると、真っ暗闇の中、ポツンとなっているように感じる。
だったら、やめてしまえばいいだけのこと。
天地宇宙も私たちも、何もしなければ、最初から、そして今この瞬間も、広く深く、透明クリアな状態にある。
それを信じるか疑うか。
それだけの話なのです。
(つづく)
先日まさにそんな状態で駅に向かっていますと、数メートル前に、同じくらいのペースで歩いている人が居ました。
その方は別に体調が悪いわけでもなく、それが普段のペースといった感じでした。
赤信号で追いついた時、フトこのあとどうしようと思いました。
ピタッと間合いを詰めたまま歩くのもバツが悪いですし、かといってわざわざペースを上げて追い抜く体力もなし。
結局スタートをズラして一呼吸ほど出遅れる形にして、さっきまでのペースで行くことにしました。
その直後、歩きだした瞬間に不思議な感覚に包まれました。
フワッと身体が軽い。
足取りが重くない。
一瞬アレ?となりました。
さっきまでとは明らかに違う。
弱っている時というのは感覚が鋭くなるものです。
重い体を青色吐息で動かしていたのが、まるでリニアのようにスーッと動く。
でも、その理由はすぐに分かりました。
それは、自分でも気がつかないまま前方の人の氣にスッと乗っかっていたのでした。
その時のことをもう一度ふり返りますと、もうフラフラな状態で、ひたすら歩くことだけに集中していました。
他に考え事をする余裕もありません。
吹雪の中の登山のように、目の前の一歩を黙々と踏みしめていました。
そんな時フト同じペースで歩く人に気づき、たまたま赤信号で立ち止まった時、心は100%その人に向いた状態となっていました。
そして歩きだしの時もタイミングを開けようと呼吸をはかっていたので、図らずも心はしっかり相手に向いていました。
他には何もない。ただ相手に向いているだけ。
そうしてそのまま無心で歩き出しました。
その瞬間、その人の氣に乗っかったということです。
ここでいう「氣」というのは、その人に吹く風なのでありました。
いきなり結論を書いてしまいましたので、少しだけ補足をします。
出来るだけシンプルな説明を心がけたいと思います。
身体が動く仕組みについて、現代科学ではこう説明されています。
「体を動かそうという意思が起きると、脳の運動野から発せられた電気的な信号が脊髄の運動神経を伝わっていき筋肉が動く」
この説明からいくと、脳がその肉体的な動きを認識するには、神経の伝達速度を考えると、常に0.5秒の遅れが生じてしまうと言います。
しかし、思いが生じてから実際の現象が現れるまで常にズレが生じてしまうと、現実世界の中で不具合が起きてしまう。
そのため、私たちの脳はこの遅れを先取りして、実際に身体が動ききる前に、もう動いたものとして認識するという荒技を行なっているということでした。
以上が科学的な説明です。
それはそれで面白い話ではありますが、これだけだと少々乱暴に思えます。
本当にそんな雑な仕組みで、これまで何十万年も不具合を起さずやってこれたのでしょうか。
この説明にはさらに補足が必要となります。
知覚というのは顕在意識(表層意識)で行われるものです。
0.5秒のズレというのはあくまで物理的な知覚の話に過ぎません。
まずは、意識以前に「感覚」というものが存在することを考える必要があります。
ここでいう感覚というのは神経系の皮膚感覚とは別物の、雰囲気とか空気とかそういう感覚のことです。
意識(表層)というのは頭の分析装置と連動するものですが、感覚というのは無意識(深層意識)へと繋がっていくものです。
感覚とは私たちを包み込むものです。
生じたり消えたりするものでなく、常にそこに在ります。
無意識と同じく、形を持たず、大海の如く氷山の下に無限に広がっています。
ただ、生じたり消えたりはしないものの、開いたり閉じたりはします。
表現を変えれば、微細になったり粗くなったりします。
それ自身が変質するということではなく見え方の問題。伝わり方の問題です。
どこまでも深く広く「存在している」ものの、その透き通り度合いで「現れかた」「見え方」「感じ方」が変わってくるということです。
これは透明度の高い海と透明度の低い海をイメージすると分かりやすいかもしれません。
透明度が低い海はすぐそこまでしか見えませんが、それでも奥底まで海は広がっています。
見えなくとも存在しています。
1m先しか見えないからといって、そこまでしか無いということではありません。
透明度が高かろうと低かろうと、海は変わらずそこに存在しているということです。
感覚や無意識についても同じです。
それらは変質することなく、変わらずそこに存在していますが、キャッチできる範囲というのは透明度によって変化するわけです。
さて、身体を動かす時の仕組みについて補足の途中でした。
信号を送って指示を出したり、動いた結果を認識したりするのは脳です。
ただその知覚の前に、すでに感覚が先行しています。
ここでの感覚というのは、無意識と連動したものでした。
その透明度によって、いわゆるオーラとかエーテル体とかアストラル体とか言われるように、感覚としてキャッチできる範囲が変わっていきます。
この大海はその先どこまでも深く続き、己の魂から集合意識、天地宇宙まで広がっています。
一般的に、エーテル体を氣と呼んだり、アストラル体を心と呼んだりすることもありますが、それは一つの表現でしかありません。
海の深さによって便宜的に呼び方を区分けしてるだけで、海はどこまでいっても海です。
そしてそれら透明度というものは、静まりかたや落ち着きの度合いによって変化します。
リラックスすればするほど、私たちは雑念が消えていき、無の境地になっていきます。
無と言っても何も知覚しないわけではありません。
感覚はより鋭敏になり、まわりの情報をキャッチし、それを理解できる状態にあります。
それというのは、外から触れて得られる情報ではなく、自分がそれと一つになることで内から得られる情報です。
それは同期とも言えるし、シンクロとも言えます。
なんでか分からないけどすでに知っている、という状態になります。
たとえば自分自身の情報というのは、わざわざ頭を介さなくても「すでに知って」います。
他人に説明する時にだけ、頭を介して噛み砕く作業が発生します。
それと同じことが起きるということです。
無の境地とは、雑念が湧か無い状態であり、境界線が無い状態です。
リラックスするほどに透明度は上がり、境界線が薄まり、私たちというものが広がっていきます。
だから、美しい山々や真っ青な海といった大自然に身を置いたり、満点の星空の下で大の字になったり、神社仏閣で手を合わせて日頃の喧騒を
忘れたり、自噴温泉に浸かってボケーっとまどろむのは、とても気持ちが良いのです。
逆に、迷いや不安、こだわりや期待といった我執があると心はガサガサと波立ち、透明度は下がっていきます。
ネガティヴ思考だけでなくポジティブ思考であっても、そこに打算や作為といった我執があると水は濁ります。
己自身の状態によって透明度は変わる。
透明度が変わるというのは、自分の範囲が広がったり狭まったりするということです。
狭まっているというのは、満員ラッシュに押しつぶされてそこしか見えなくなっている状態です。
広がっているというのは、透き通った先まで感覚が広がってまわりが見渡せている状態です。
「心を静めると天地と一体となる」というのはそういうことです。
透明度によって見えるものや感じるものが変わってくる。
つまり、己の状態が感覚を決めているわけです。
身体の動きに話を戻しますと、知覚意識に先行して、水面下の無意識のところでまず氣が動きます。
その流れに乗って身体が動くという順番になっています。
氣とは言わば、風のようなもの。
私たちはヨットのごとく帆を張り、自ら起こした風に帆を押されて進んでいるということです。
その氣が動いた時点で、そこに広がっている無意識はそれを感知しています。
実際の肉体が動いている時にはもう、距離やスピードに関係なく、それより先に無意識は感知しているということです。
そのため0.5秒のタイムラグなど起きないわけです。
ちなみに日本古来の武道は、身体運動のせめぎ合いをトコトンまで追求した結果、神経系の電気信号伝達という物理法則の次元を超えて、無意識
の世界に辿り着きました。
それは何も怪しい話ではなく、宮本武蔵や山岡鉄舟など、あらゆる剣豪が最後は坐禅に行き着いています。
もともと禅は、真理を求めて哲学的アプローチを重ねて行き着いた世界ですが、一方の剣術は死線をくぐりながらさらなる強さを求めて感覚的
アプローチの果てに行き着いた世界です。
それらが全く同じところに行き着いているというのは、まさにこの世の仕組みを表していると言えます。
皮膚感覚の先の先の先にあるのは精妙なる深淵な非物質の世界だったということです。
静まりきった世界、天地へ広がった世界。
そこまで感覚を深めることによって、抑えたり導いたり、制したり投げたり、あるいは「後の先」という発想が生まれました。
他のスポーツであってもプロレベルにもなれば、それと自覚しないままその領域に入っていることもあるのではないかと思います。
感覚に耳を澄ましている時、頭はオフになっています。
そうなると理解したり指示したりできないのかというとそうではありません。
心が開いているので、状況をクリアに理解できるし、ジャッジも出来ます。
このあたりは、例えば幽体離脱したらどういう状態にあるのかという話に通じるものがあります。
透明度が上がり心が広がっていると、そこまで一体となっているので、もう考えなくとも分かってしまっているわけです。
その逆に、あれこれ考えこんだりして頭がオンになると、感覚はどんどん薄まっていきます。
すると透き通った大海はたちまち濁ってしまい、何も見えなくなります。
自分本位の生き方を続けると透明度が下がり、みるみる真っ暗な世界となっていきます。
そうしてますます不安が増すと、安心を求めて我利我利に拍車をかける悪循環が始まります。
本当は最初から変わらず全ては私たちの目の前にある、、、でも何も無いじゃないか?
本当は私たちは天地宇宙の優しい温もりに包まれている、、、でも何も感じないじゃないか?
その迷い、その苦しさというのは、つまりそういうことであったわけです。
海というのは、見えるところまでしか存在しないわけではありません。
透明度がどんなに低くても、海はその先まで広がっています。
母はどこかと不安になる必要はないのです。
暗闇をさらに暗くさせることはないのです。
不安や不足に怯えると、安心したくて自分へスポットライト(思い)を向けてしまいます。
自分、自分、自分と。
そうなるとライトの反対側は暗くなります。
スポットライトを強くすればするほど、その反対側の暗闇は増していきます。
まわりから見ればそうではないのに、自分から見ると、真っ暗闇の中、ポツンとなっているように感じる。
だったら、やめてしまえばいいだけのこと。
天地宇宙も私たちも、何もしなければ、最初から、そして今この瞬間も、広く深く、透明クリアな状態にある。
それを信じるか疑うか。
それだけの話なのです。
(つづく)