これでいいのダ

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お蔭様は万国共通

2016-11-11 12:32:50 | 世界を旅する
旅というのは、ハプニングも含めて何もかも楽しいものです。

あらゆる展開をウェルカムな心で受け入れて、ノープランのまま筋書きの無いストーリーを1ページずつ進んで行く。
何が起きるか分からないという、この360°無限に広がる開放感は本当に心地よいものです。

あらかじめアレコレ決めてしまうと、目の前に広がる道を自ら狭めてしまうことにしかなりません。
すると思いがけない出来事や発見というのはその分だけ目減りしてしまいます。

「想定したことが起こる」
それは安心安全な旅に違いありませんが、安心だけが幸せなのかということです。

そしてそれは、まさしく人生そのものを指し示すものでもあるわけです。

ただ、旅行というのは期間が限られているので大らかな心で何でも楽しもうという気持ちになれますが、人生はとにかく長い。
寿命という期間限定が設けられているのは旅を楽しむのと同じ理由ですが、それでもやはりその気持ちを維持するには長いと言えるかも
しれません。
しかし長すぎてモタないというその長さこそが、絶妙な仕掛けにもなっています。

本来は夢の創造であるこの世界を「夢ではない」と自らを信じ込ませるためには、これだけの長さが必要であるわけです。
夢が夢だと分かってしまうと、種明かしされた手品と同じでドキドキハラハラすることが無くなってしまいます。

寿命というのは、旅を楽しむために期間限定であるとともに、私たちがスクリーンの中の自分たちに同化しきってそれを芯から味わう
ための絶妙な長さでもあるわけです。



さて、イタリアの話をしたいと思います。

予定を立てる以前に、そもそも仕事が忙しくて何も考えられないまま当日を迎えてしまいました。

ミステリーツアーというのは、事前に情報が少なければ少ないほど、驚きの感動は大きくなります。
そして、驚きと喜びが必ず起きることを知っていると、最早「信じる」という表現にはならずに、当たり前に進んで行くようになります。

何故、驚きと喜びの出来事が「必ず」起きるかというと、それはあらゆるハプニングが喜びになることを知っているからです。
こうした旅に行きますと私たちの誰もがそうであるのですから、本来の人生もまた誰もがそうであるということです。

前世の知識を失い、今世の予見をも失う一番の理由は、まさしくこのミステリーツアーを充実させるための仕掛けに他なりません。
知らないことを知った時の驚きと喜びは、旅先で誰しも経験することです。
そしてこの世に生まれて来るというのは、まさにその初めての国への旅と同じであるわけです。


さて、現実の旅行のほうに話を戻したいと思います。
フィレンツェに着いてからのことです。

初日は時差ボケで早朝に目が覚めてしまいました。
とりあえず近場まで散歩しようと外へ出ましたら、100メートルも行かないうちに道脇に人が集まっているのに出くわしました。

まだ早い時間でしたので道ゆく人もまばらでしたが、小さな広場には中世風の服装に分かれた一団が立ち並び、その横には小銃を構えた
軍人が整列していました。

その後ろをすり抜けて見やすい位置へ移動しますと、勇ましい演奏とともに国旗が揚がり始めました。
気づけば初日の一歩目に国歌の生演奏を聴かせて頂くことになりました。

居並ぶ軍人の方を何気なく眺めますと、修道服に身を包んだ看護婦とおぼしき老女たちが整然と並んでいるのに気づきました。
修道服の女性たちは軍人たち同様、同じ角度で国旗を見上げながら声高らかに国歌を斉唱していました。

それを見た瞬間、表現しがたい濃縮された悲哀の塊が全身をブワッと吹き抜けました。
何がなんだか分からぬまま、涙が溢れそうになるのを必死に堪えるばかりでした。

国旗が掲揚され、しばし静けさが漂う中、記念碑の下へ大きな花輪が運ばれていきました。
その間、捧げ銃に構える軍人とともに、老女たちもビシッと直立不動の姿勢で力強く立っていました。

修道女といえば慈愛に満ちた優しいイメージしかありませんが、彼女たちの雄々しき姿は、そのすぐ脇で黒光りする小銃と違和感なく
溶け合っているのが衝撃でした。

もちろん、それは強さの現れであり、そうやってこの国は遥かな昔から自分の国や家族たちを護ってきたわけです。
負けまいとする気持ち、一丸となって国を護るという強い思い。
兵士達にも神の御加護があらん、です。
しかし、その激しいほどの強さゆえに、その内に秘められた止むに止まれぬ深い哀しみが伝わってくるのでした。

イタリアというのは小さな公国が集まった共和国でした。つまりその前は戦国時代があったということです。
そして、その前にも、そのあとにも、他国から獲った獲られたという歴史がありました。

修道女すら心に銃を持ち、闘わなければならない。
逞しさを表にあらわさずには居られない。
何という大変な歴史だったのでしょうか。
それは生きるために必要なことであり、護るために必要なことであり、それ無くして今というものは無かったわけです。

良い悪いということではなく、それが逞しくあればあるほどに、深い哀しみと強い愛情がないまぜになって全身を吹き抜けたのでした。

あとで聞くと、それは戦没者の慰霊祭とのことでした。

国というのは、古今東西どこであっても数多くのお蔭様によって支えられています。
そして、今この笑顔というのは数知れない哀しみと愛情によって支えられているわけです。

すべてに感謝を思う瞬間です。

古人をしのごの言う権利が私たちに有るはずがありません。
今ここに生かさせてもらっている、その事実が全てでしょう。

どの世界にあっても私たちを護る国魂というものがあります。
それは天に坐します遠い存在というのではなく、私たちのご先祖様たちであり、私たち自身であるわけです。

初めの一歩で、そのことを改めて教えて頂きました。


(つづく)




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