これでいいのダ

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私たちを包むゆりかご

2016-12-10 12:06:03 | 世界を旅する
フィレンツェは文化的な観光地ということもあって、道ゆく人たちや街全体に穏やかな雰囲気が漂っていました。

出国前の過労と体調不良で薄氷を踏むような危うさで旅行していましたが、おかげで何事もなく無事に通らせて頂けました。
今更ながらあの状態で襲われたら一巻の終わりだったと思います。お護り頂いて心から感謝です。

そうして少しずつ体力を戻していきながら、次のローマへ移動する日となりました。

フィレンツェの中央駅は前日に下見をして、すでに駅の造りや混み具合は肌にインプット済みでした。
国内のホテルでもチェックインすると階段と非常口を確認して暗闇でも逃げられるようにしていますが、それと同じ話でありました。

こうしておけばテロや銃撃事件に巻き込まれて逃げる時や、スリや暴漢を追う時も、暗闇パニックにならずに冷静に判断できます。
もちろん後者については命の危険もあるので、余程のことが無ければ深追いせず諦めるつもりでいました。

感情のまま闇雲に走っても、その先の道や曲がり角がどうなっているか分からないと行き当たりばったりになってしまいます。
特に、大勢が慌てて逃げる時の群衆心理に巻き込まれたらアウトです。
自分の身は自分で護らなくてはいけません。

これはまさしく日頃の生き方と同じことです。
マスコミやネットの情報に煽られて突っ走ったり、様々に沸き起こる感情に流されるのは危険であるということです。

さてそのようにして中央駅に着きますと、そこには同じホテルで見かけた日本人カップルが居ました。
年齢は40前後で、見た目も落ち着いた感じだったのですが、まずお連れさんを待ってる時の姿にギョッとしてしまいました。

大きなカバン2つに申し訳程度に手を置いて、下を向いたままスマホをいじっているその姿は完全に気が抜けていて、カバンも手もとで
氣が切れていました。
そして連れ合い女性が合流したあとは2人だけの世界に入りこんで、まわりが見えなくなっていました。

といってもその人たちが特別おかしかったというわけではなく、日本であれば普通に見かける姿だったのは間違いありません。
同国人だから気になったというのもあるかもしれませんが、それでもやはり海外の空気の中では明らかにそこだけが異彩を放っていました。

その異質感は彼らの醸し出したものというよりも、まわりの空気が作り出したものと言えました。

あらためて全体を見渡してみますと、駅の雑踏を行きかう人たち、そこで電車を待っている人たち、そうした一人一人がハッキリと
くっきりしていました。
これに比べれば、日本で見慣れた雑踏にはその向こうに全体を包む柔らかいものがあることに気づかされました。

非常に感覚的なものなので言葉で表現するのは難しいのですが、例えば日本もイタリアも同じように一人一人の「氣」というものが
独立独歩に好き勝手にまとまりなく動いているものの、その足元の水面は日本の方がかなり浅いところにあるような感じでした。

その水面というのはイタリアでは足もと遠くにあって、長い竹馬に乗って歩いているような距離感であるのに対して、日本はもう膝の下に
まで水が来ている。
喩えとして足元で表現しましたが、実際のそれは360°四方八方に在るという感覚でした。


ひも理論では「四次元以上の多次元は、極小の形で空間の中に無限に織り込まれている」と表現されますが、まさにそんな感じです。
もう詰まり詰まっている、本当に高天原に神詰まっているのでした。
ただそれはその中にいる間は気がつかず、外に出て初めて気づけるものでした。


イタリアではそれをかなり遠くに感じたため、手前の空間はスカッとしてるというか、その分そこに居る一人一人はよりクッキリと
存在していました。
つま先の先の先までがクッキリしている。
まさに「在る」という感じ。
それに比べると日本は膝下あたりがもう波打ち際となっているため、そこから先は何となくモヤンとしていると言えました。

言い方を変えれば、日本で無意識のうちに当たり前に感じていたその柔らかい何かがイタリアには無い。
そこに在るはずのものが無くて、いきなり空間の中に私たち一人一人が存在しているような感じなのでした。

だからなのでしょう、その中に身を置くと「自分」というものをつま先の先までクッキリと描き出させないと、地面までしっかり届いて
いないというか、足元からフワフワ浮いてしまっているような感覚に陥りました。

その、日本で身近に感じた私たちを包む柔らかいものとは、もしかしたら国魂なのかもしれませんし、ユングのいう集合的無意識なのかも
しれません。

ふだん私たちは他人に無関心のまま好き勝手に生きていますが、それでも日本はとても近いところに一つの海のようなものが存在している
ことを、このとき肌身に感じました。


その母なる海に包まれていればこそ、彼ら日本人カップルのスマホいじりも、日本では決して無防備なんかではなくなるわけです。
今も電車の中で多くの人たちがスマホいじりの世界に入り込んで隙だらけになっていますが、そこにイタリアで見たような危うさは全く
感じられません。

外国の人たちが日本に来た時に、電車の中で熟睡している人たちを見て大変驚くそうです。
うつらうつらする人は居ても、そこまで爆睡するような人は海外には居ないからだと言います。

寝るというのは最も無防備な状態です。
生き物として本能的に一番強固なロックがかかる場面だと言えます。
それが、見知らぬ人たちに囲まれてそこまで安心しきれるということ自体が想像つかないのだそうです。

しかし、それを聞いても私たち日本人は何が不思議なのかいまいちピンときません。
私たちは「見知らぬ人たち」=「危険」という発想が起きないほどに、とても近いところで周りと一体となっているからです。

そしてまた、外国の人たちが日本に来ると一様に「これほど自分が外人であることを自覚する国は無い」と感じるのは、まさにそこに
あるのではないかと思います。

さらに私たち日本人の一体感、繋がりというのが極めて近くにある証拠に、何か大事が起これば表面を覆っている薄皮一枚の個々の自我は
あっという間に吹き飛び、その真下にあるモヤンとした一体感がすぐに現れ出ます。

大震災がそうですし、先の戦争でもそうでした。
その海のように広がる一つの感覚が剥き出しになると、海外の人たちが驚くような静かに秩序立った姿が現れます。
それは決して教育や理性によるものでは無く、私たちは特に考えずともやってしまう自然行動であるわけです。

自我の土俵が吹っ飛んで一つ海に等しく浸かる状態となった時、『天地が我か、我が天地か』という皆一つの状態となって、足並み乱れる
ことのない同じ感覚となるのでしょう。


つまり、個々人は自分で行動しているのですが、その自分というものが大海と等しくなっている。
そうなるともはや大海の意思なのか、自分の意思なのか、その線引きは無くなるということです。

平時においても私たち日本人が空気を読んだり、人の気持ちを感じ取ることを自然に行なえるのは、一つの大海が極めて近くにあるから
なのかもしれません。

ということは逆にそれが遠くにある国では、一人一人がハッキリくっきり存在し、主張し、生きるのは自然な流れと言えます。
世界に誇る日本の安全というのは、そうした目に見えない柔らかさのお蔭にあったということです。

今回の旅では幸いにしてスリや犯罪など危険な目に合うことはありませんでしたが、気が張るような場面は多々ありました。

フィレンツェでも、中央駅の雑踏にあって大荷物を抱えつつ、乗り間違えないように掲示板を見ている時というのも気が張る場面でした。

ちなみに、海外では遅延が当たり前なので、どのホームに入線するかは直前まで決まらないものなんだそうです。
到着してからわずか10分ですぐに出発してしまうため、ホームを間違えたら一巻の終わり。
ですから、どうしても心配しながら見逃さないよう真剣に掲示板を見てしまいます。
すると、意識がそこだけに向いているわけですから非常に危険な状態にあることになります。

そのようなわけで地図を見たり、カバンを開けたりして周囲から意識を外すような時には、まず壁や隅へと移動して壁に背を向ける
ようになりました。
そうすれば背面の視界や気配はひとまず切り捨てても大丈夫だからです。
これはほとんど無意識にやっていたのですが、ふとそれに気づいた時はゴルゴ13の真実味を実感して驚いたものでした。

海外の暮らしが長いと言動が突き刺さるようになるというのは、生活習慣や民族の違いというよりも、深くにまで足先を届かせずには
居られない、根を下ろさないと不安になってしまうという空気感に原因があるのではないかと思いました。
帰国子女などに見られる一種のキツさというのは、そうした感覚に馴染んであちこちが伸びた状態で日本の浅瀬に来ているわけですから、
知らず知らずあちこちにザクザクと刺さるのは当然の話と言えるでしょう。
まさに感覚の問題ですので、デリカシーの問題ではないということです。

自分自身にしても、そのような空間に身を置いたあと、日本に帰って来た時にはその包み込む感覚に皮膚がホッとしているのを感じました。

私たちには、まず自分という海があり、その下には家族と繋がる一つ海があり、さらにその深みに民族と繋がる一つ海があります。
その先には民族を超えて人類で繋がる海があり、さらには生き物として繋がる海、そうして天地という大海があるわけです。

個の存在というのは非常に大切なものです。

ただその「個」というものをどの視点から見るかによって、その中身も大きく変わってきます。

あくまで個の中からそれを見ている状態と比べますと、小なる一つ海、中なる一つ海、大なる一つ海の上に立った「個」というのはさらなる
重みを増します。

その両方があって共に活きるわけです。
どちらかに偏るような見方では窮屈なものにしかなりません。
大なる一つ海が大事だからといって個を軽んじるのでは本末転倒ですし、逆に、個に特化してそこに囚われてしまうというのも狭い世界の
中で息が苦しくなるだけです。

私たち日本人が、その繋がりを身近に共有しているのは本当に幸せなことです。
個を安定させるために自我は根を張ろうとしますが、深くまで伸ばさなくとも、すぐにそこに大きな足場がある。
つまり、自我が肥大しにくい環境にあるということになるわけです。

小なる一つ海が近しく感じられているということは、その先の大なる一つへの障壁がそれだけ薄まっているということでもあります。


もちろんここでの「繋がる」というのは一つの比喩で、もともと私たちはすべてに繋がっています。
あくまで霞の翳りによりその繋がりが掻き消されて見えなくなってしまっているに過ぎません。

「自分のことだけ」ではいつまで経っても小さな世界のままとなります。

気づかず自由奔放にやれると思いきや、所詮は小さく狭い世界ですから、そのうち窮屈さに息苦しくなって、生きること自体が苦しく
なっていきます。

家族や友人、仲間へと心を向けることで足もとは広がっていきます。
すると霞が晴れるように翳りが消えていき、伸び伸びと手足を広げられるようになっていくことでしょう。

そうして国全体や、過去のご先祖様たちへと心が広がれば、ますます伸びやかな海に浸ることになるのではないかと思います。

これまで幾千億ものご先祖様たちが、自分以外の誰かのこと、家族のこと、仲間のこと、さらに昔のご先祖様たちのこと、国のこと、
国を護って下さっている存在のことを思い、感謝し、そのようにして心を広げていかれたことでしょう。

今この私たちを包むやわらかな海というのは、そうした思いの一滴一滴が集まったものと言えます。

そして私たちもまた、そうしたうちの一人であるわけです。

私たちから溢れ出る一滴一滴が集まり大海となり、その大海に私たちは優しく包まれています。

母であり子である私たちは、母なる揺りかごにゆらされながら今を生かして頂いているのです。



(つづく)


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