私たちは無意識のうちに、頭が身体を動かすものだと思い込んでしまっています。
たとえば慣れないスポーツや運動をする時も、まずは頭で考えてから身体を動かそうとします。
でも理屈で動かそうとすると逆にギクシャクして、訳が分からなくなります。
だから世の中には、目新しい理屈を並べたハウツー本が次々と出てきます。
ただ、どこまでいっても頭優先の理屈で進めようとする限り、ギクシャクが無くなることはありま
せん。
自転車に乗れるようになるまで何度も転んだように、結局は頭ではなく身体にまかせてしまうしかないのです。
それは、車の運転にしてもそうでした。
最初はガチガチの腕でハンドルにしがみついていたのが、車両感覚が身体に染みつくとあとは感覚に任せられるようになったはずです。
どのようなことでも、回数を重ねてギクシャクしなくなった人間が、あとになって理屈をつけて説明しているだけなのです。
取っ掛かりとしての理屈は大事ですが、一通り理解したら、あとは手放さなくてはいけません。
私たちの身体というのは頭が考えた通りに動くものなので勘違いしやすいのですが、実際はその逆ルートとして、身体から頭に入ってくることも
数多くあります。
スポーツや運動にしても、感覚で上手くやれてしまった時には何でそれが出来たのか自分でも分からないことがあると思います。
子供は素直なのでそうした感覚に任せて、何でもすぐに出来るようになりますが、大人は頭で理解しようとして立ち止まってしまいます。
頭と身体は、決して一方向的なものではありません。
こうして冷静になって考えていますとそれが分かるのですが、普段の生活のなかではそうもいきません。
頭が指示する機会が多すぎるために、いつの間にか一方通行的な回路が固定化してしまうのです。
子どもの頃は、頭で考えるより先に身体を動かしていました。
明らかに身体の方が優位になっていました。
ですから頭から入る知識情報よりも、身体を通して入る感覚情報の方が多かったわけです。
頭と身体のどちらが主でも従でもなく、自由自在な双方向のものでした。
しかし知識が蓄積され経験則から行動を決めるようになりますと、主体は頭へと移っていき、身体から入る感覚情報はオフになってしまいました。
大きくなるにつれ、他者の獲得した知識や情報がたくさん頭に入るようなり、それらをもとに決断をする機会が多くなっていきました。
しかしもともと幼い頃の私たちは、身体から情報を吸収して決断をしていました。
未知の情報というのは、常に身体から入って心に伝わるものです。
頭から体に伝わる情報は、既知のものしかありません。
本当の理解というのは頭の理屈ではなく、全身の感覚によって心に染み入るものです。
身体を包む感覚がそれをキャッチし、その感覚と心が一つになって自他の壁がなくなり、情報が同化されるのです。
しかし、頭から身体への一方通行の回路が出来あがってしまいますと、身体からキャッチする情報は限定的になってしまいます。
よほど強烈な刺激でもなければ、大抵はスイッチが切れたままにあります。
頭が優位になってしまうと、意識を向けたものにしか身体のセンサーは働かなくなってしまうのです。
本当ならばそのまま何もせず放っとけば、身体感覚から情報がどんどん入ってきます。
しかし、頭の思考を使った瞬間、その道が閉鎖されてしまうのです。
それは『情報をキャッチするな』という指示を、片時も休まず出し続けているとも言えます。
決して、スイッチを切ってるから感覚情報が遮断されているということではないのです。
まさに無駄骨と言えますが、遮断しろという指示をずっと出し続けているのです。
囚われに縛られている状態というのは、それを維持するために、一瞬も休まずエネルギーを注ぎ続けている状態なのです。
そもそも人間は、一つの感覚に集中しようすると他の感覚が薄れるように出来ています。
見よう見よう、聞こう聞こうと執着すると、頭が優位となり回路が一方向化してしまい、本来の身体感覚がシャットアウトされてしまうのです。
とりわけ現代社会は、理屈をこねたり頭を使うことばかりが習慣化してしまっているため、ますます感覚が鈍ってしまっています。
一つのことに囚われると他が見えなくなります。
囚われを無くして自然に任せたフルオープンになると、あらゆる感覚が開いてきます。
皮膚を通して膨大な情報が身体に入ってきます。
それをそのままに受け入れれば、それまで知らなかった多くのことを得ることができます。
しかしそれを頭で分析しようとすると、途端に情報は薄れていきます。
すくおうとした水が指の間から流れ落ちていくようにです。
ありのままに受け入れるというのは、自我の枠に押し込めないことです。
理解しよう判断しようとするとロクなことになりません。
忘れないよう覚えておこうとしがみついた瞬間、それは本来の姿を失います。
「今」を目の前で止めようとせず、ただ身体に流すだけ。
それが「感じる」ということです。
分かるというのは、頭でアレコレこねくり回して理解することではありません。
「感じる」ということです。
ですから子どもの姿こそが自然な状態なのです。
だからこそ無邪気にハシャぐのが一番だと言うわけです。
そのまま身体を通すことこそが、天地自然の姿です。
忘れないようにしようとか頭で理解しようとするのは、その流れを止めることにしかなりません。
流れるままにまかせることが、天地自然と同化していることになります。
すると、その情報とも同化することになります。
本当の理解とは、全身の肌にフワーッとくると同時に胸の奥底からもフワーッと湧き出てくるものです。
理解しようと気張らず、ただ心安らかに楽しもうとすればいいということです。
感覚の凄みという点では、感覚記憶というのは、一瞬で頭優位の状態を掻き消すものでもあります。
たとえば子どもの頃に過ごした場所では、その時の感覚がリアルに蘇ってきます。
それは頭の記憶ではなく、全身の皮膚の毛穴から呼び起こされます。
朝に職場に入った時にはそこで過ごしていた感覚になりますし、家に戻ればそこで過ごしていた感覚に切り替わります。
こうしたものは、そこの雰囲気とそこでの心の状態がワンセットになって身体に刷り込まれていることで起こります。
その場の空気に触れると条件反射で、心の状態が呼び起こされるのです。
これは場所に限らず、対象が人であっても当てはまることです。
たとえ心を天地自然と一体にさせても、いつもの職場に身を置くとすぐにいつもの自分に戻ってしまうのはそのためです。
あるいは心静めて安らかになっていても、いつもの相手に会うといつもの感情が湧いてしまうのもそのためです。
そうしたものを一気にゼロにしようとするのは、ほとんど無理に近いことです。
そうしたものはコツコツと時間をかけて、少しずつ上書きしていくしかありません。
逆に、それまでどんなに嫌な気持ちであっても、お気に入りの場所に行けば一瞬で心が軽やかになったりもします。
これも身体感覚が主となってスイッチが切り替わっているからです。
これほど感覚というのは私たちにとって大きな力を持っているものなのです。
ですからたとえば嫌な場所や嫌な人物の前に身を置いた時には、好きな場所や人物のこと、その時の感覚を心に浮かべるのがいいかもしれません。
悪い感情を手放した時の感覚を少しずつ重ねていくことが、感覚記憶を塗り替えていくことになります。
この世界では、あれこれ熟慮するよりも実際に行動を取った方が具体的な結果を生みます。
行動とは流れであり、流れとは変化であるからです。
頭の中の妄想だけでは現実は変わりませんが、行動は現実を変えます。
そして行動のカギとなるのが「感覚」です。
感覚というのは肉体と心の中間にあると喩えられるかもしれません。
つまり目に見える物理的な肉体と、目に見えない精神的な心の、両方にオーバーラップしているということです。
いくら心が現実を創るとはいえ、物質で出来ているこの世にいきなり一足飛びで影響をもたらそうとしても、何より私たち自身が抵抗してしまいます。
しかしまずはその中間にある肌感覚に心を向けるならば、心そのものも柔らかくなりそこから物理的な影響も現実化するわけです。
ですから、感覚に心を開くというのは非常に大切なことなのです。
その感覚を鋭くするためには、心の耳を澄ますことになります。
つまり、集中することです。
他のことに意識が散漫になっている「ながら」状態では鈍ってしまいます。
頭でアレコレ考えている状態もおなじことになります。
何かを実現させようとする時は、感覚のセンサーを磨くのが近道と言えます。
感覚が先に行って、意識や理屈が後付けされるというのが自然であるように思えます。
たとえば願望実現法にも、まず感覚や肌感を具体的にイメージするというものがあります。
これは自分を包む感覚というものが身体に強く影響を及ぼし、潜在意識にも深く伝わり、結果、物理世界にまで響くことを示しています。
感覚というのはそれほど凄いものです。
だからこそ気をつけなくてはいけません。
昔の人は我執でそれを翳らせてしまうことを忌み嫌っていました。
ですから普段から慎ましく清らかであろうとし、何かにつけて禊祓いをしたのです。
私たちも、全身を包むこのモヤッとした感覚をいつも清らかにしておくのがいいと思います。
清らかな場所、スッキリする場所へ何度でも行ってその感覚を体に通すのはいいことです。
そのような場所では、それを吸収しようと気張らず、ただそこに居るだけで全身を風が吹き抜けて細胞が蘇ります。
大自然の中を歩いたり、静謐なるご神気に触れた時には、写真を撮ったりアレコレ頭で考えたりせずに、その空気の中に浸りきるのが一番です。
全身に流し、身体を通すと、天地自然と同化してまわりの心も流れてきます。
自分の心が相手の心と一つになります。
別の表現をすれば、相手の雰囲気や気配をそのままに自分のものとします。
すると、自分の心の中に色々なものが映ってきます。
それは自分の心でもあり、相手の心でもあります。
そのようにして私たち日本人は、相手の心を我が心として感じてきました。
身体に流れてくる感覚に耳を澄ませば、頭を使って理屈に走る心癖が少しずつ薄まっていきます。
感覚というのは、天地宇宙との会話でもあります。
そしてそれはいま目の前の人たちとの会話でもあり、今は亡きご先祖様たちとの会話でもあります。
それは決して特別なことではありません。
私たちは子どもの頃にそれを自然にやっていました。
ということは、それこそがごく自然な当たり前の状態ということです。
「難しい道だ」と自分でハードルを上げてしまうと本当にイバラの道となってしまいます。
一瞬で激変させることは無理な話ですが、少しずつ素直に耳を傾けていくことで、薄皮を剥がすように着実に変化していきます。
決してストイックな道でも険しい道でもないのです。
子どもの時の感覚を思い出せば分かります。
あの頃は、あれこれ考えずただ無邪気に楽しんでるだけでした。
今はそうでないということは、つまり今この瞬間、私たちは無邪気になってはいけない、楽しんではいけないと自分で決めつけてしまって
いるということです。
人生とはそういうものだと満足してしまったり、大人になるとはそういうものだと諦めてしまっているということです。
何のことはない、実は今この時が、険しくストイックな道そのものだったわけです。
感覚に耳を澄ませるということは、無邪気に楽しむための第一歩です。
自分の皮膚感覚、肌感覚というものは本当に凄いものです。
それは信じる信じないというものではなく、忘れてるか思い出すかというだけのことです。
そのためには、大自然の中に実際に身を置いて頭をオフにしてみるのが一番手っ取り早いでしょう。
また、真善美の作品に触れてみるのもいいと思います。
感覚に心を開くには、部屋にこもって悶々と考えてるだけではどうにもなりません。
まず物理的なアクションを取ることが必要です。
今すぐできることでは、電子機器を切った状態に身を置いてみるのが良いかもしれません。
電磁波は感覚を委縮させます。
本能的に閉じてしまうのです。
時々でもいいのでTVや音楽を消して、静かな中で目をつぶり、全身の毛孔から流れ込んでくる感覚に身をまかせてみてはいかがでしょうか。
あるいは湯船に浸かって、心を身体に預けてみるのでもいいと思います。
時間があれば、緑の中にたたずみ遠くのそよ風へと心を広げてみると最高です。
常日頃その状態を保つのは難しいかもしれません。
ただ、時折ふと外から内に流れてくる感覚に耳を澄ますだけで、人生はより豊かなものになるはずです。
この世は心だけでもありませんし、身体だけでもありません。
その両方がバランスよく自然に交流しているのが天地自然な姿です。
スッと頭の力を抜いて自分の身体に心を開けば、フワッとした感覚が外からやってきます。
そんな爽やかな風のあとには、今までとは違った景色が広がっていることでしょう。
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たとえば慣れないスポーツや運動をする時も、まずは頭で考えてから身体を動かそうとします。
でも理屈で動かそうとすると逆にギクシャクして、訳が分からなくなります。
だから世の中には、目新しい理屈を並べたハウツー本が次々と出てきます。
ただ、どこまでいっても頭優先の理屈で進めようとする限り、ギクシャクが無くなることはありま
せん。
自転車に乗れるようになるまで何度も転んだように、結局は頭ではなく身体にまかせてしまうしかないのです。
それは、車の運転にしてもそうでした。
最初はガチガチの腕でハンドルにしがみついていたのが、車両感覚が身体に染みつくとあとは感覚に任せられるようになったはずです。
どのようなことでも、回数を重ねてギクシャクしなくなった人間が、あとになって理屈をつけて説明しているだけなのです。
取っ掛かりとしての理屈は大事ですが、一通り理解したら、あとは手放さなくてはいけません。
私たちの身体というのは頭が考えた通りに動くものなので勘違いしやすいのですが、実際はその逆ルートとして、身体から頭に入ってくることも
数多くあります。
スポーツや運動にしても、感覚で上手くやれてしまった時には何でそれが出来たのか自分でも分からないことがあると思います。
子供は素直なのでそうした感覚に任せて、何でもすぐに出来るようになりますが、大人は頭で理解しようとして立ち止まってしまいます。
頭と身体は、決して一方向的なものではありません。
こうして冷静になって考えていますとそれが分かるのですが、普段の生活のなかではそうもいきません。
頭が指示する機会が多すぎるために、いつの間にか一方通行的な回路が固定化してしまうのです。
子どもの頃は、頭で考えるより先に身体を動かしていました。
明らかに身体の方が優位になっていました。
ですから頭から入る知識情報よりも、身体を通して入る感覚情報の方が多かったわけです。
頭と身体のどちらが主でも従でもなく、自由自在な双方向のものでした。
しかし知識が蓄積され経験則から行動を決めるようになりますと、主体は頭へと移っていき、身体から入る感覚情報はオフになってしまいました。
大きくなるにつれ、他者の獲得した知識や情報がたくさん頭に入るようなり、それらをもとに決断をする機会が多くなっていきました。
しかしもともと幼い頃の私たちは、身体から情報を吸収して決断をしていました。
未知の情報というのは、常に身体から入って心に伝わるものです。
頭から体に伝わる情報は、既知のものしかありません。
本当の理解というのは頭の理屈ではなく、全身の感覚によって心に染み入るものです。
身体を包む感覚がそれをキャッチし、その感覚と心が一つになって自他の壁がなくなり、情報が同化されるのです。
しかし、頭から身体への一方通行の回路が出来あがってしまいますと、身体からキャッチする情報は限定的になってしまいます。
よほど強烈な刺激でもなければ、大抵はスイッチが切れたままにあります。
頭が優位になってしまうと、意識を向けたものにしか身体のセンサーは働かなくなってしまうのです。
本当ならばそのまま何もせず放っとけば、身体感覚から情報がどんどん入ってきます。
しかし、頭の思考を使った瞬間、その道が閉鎖されてしまうのです。
それは『情報をキャッチするな』という指示を、片時も休まず出し続けているとも言えます。
決して、スイッチを切ってるから感覚情報が遮断されているということではないのです。
まさに無駄骨と言えますが、遮断しろという指示をずっと出し続けているのです。
囚われに縛られている状態というのは、それを維持するために、一瞬も休まずエネルギーを注ぎ続けている状態なのです。
そもそも人間は、一つの感覚に集中しようすると他の感覚が薄れるように出来ています。
見よう見よう、聞こう聞こうと執着すると、頭が優位となり回路が一方向化してしまい、本来の身体感覚がシャットアウトされてしまうのです。
とりわけ現代社会は、理屈をこねたり頭を使うことばかりが習慣化してしまっているため、ますます感覚が鈍ってしまっています。
一つのことに囚われると他が見えなくなります。
囚われを無くして自然に任せたフルオープンになると、あらゆる感覚が開いてきます。
皮膚を通して膨大な情報が身体に入ってきます。
それをそのままに受け入れれば、それまで知らなかった多くのことを得ることができます。
しかしそれを頭で分析しようとすると、途端に情報は薄れていきます。
すくおうとした水が指の間から流れ落ちていくようにです。
ありのままに受け入れるというのは、自我の枠に押し込めないことです。
理解しよう判断しようとするとロクなことになりません。
忘れないよう覚えておこうとしがみついた瞬間、それは本来の姿を失います。
「今」を目の前で止めようとせず、ただ身体に流すだけ。
それが「感じる」ということです。
分かるというのは、頭でアレコレこねくり回して理解することではありません。
「感じる」ということです。
ですから子どもの姿こそが自然な状態なのです。
だからこそ無邪気にハシャぐのが一番だと言うわけです。
そのまま身体を通すことこそが、天地自然の姿です。
忘れないようにしようとか頭で理解しようとするのは、その流れを止めることにしかなりません。
流れるままにまかせることが、天地自然と同化していることになります。
すると、その情報とも同化することになります。
本当の理解とは、全身の肌にフワーッとくると同時に胸の奥底からもフワーッと湧き出てくるものです。
理解しようと気張らず、ただ心安らかに楽しもうとすればいいということです。
感覚の凄みという点では、感覚記憶というのは、一瞬で頭優位の状態を掻き消すものでもあります。
たとえば子どもの頃に過ごした場所では、その時の感覚がリアルに蘇ってきます。
それは頭の記憶ではなく、全身の皮膚の毛穴から呼び起こされます。
朝に職場に入った時にはそこで過ごしていた感覚になりますし、家に戻ればそこで過ごしていた感覚に切り替わります。
こうしたものは、そこの雰囲気とそこでの心の状態がワンセットになって身体に刷り込まれていることで起こります。
その場の空気に触れると条件反射で、心の状態が呼び起こされるのです。
これは場所に限らず、対象が人であっても当てはまることです。
たとえ心を天地自然と一体にさせても、いつもの職場に身を置くとすぐにいつもの自分に戻ってしまうのはそのためです。
あるいは心静めて安らかになっていても、いつもの相手に会うといつもの感情が湧いてしまうのもそのためです。
そうしたものを一気にゼロにしようとするのは、ほとんど無理に近いことです。
そうしたものはコツコツと時間をかけて、少しずつ上書きしていくしかありません。
逆に、それまでどんなに嫌な気持ちであっても、お気に入りの場所に行けば一瞬で心が軽やかになったりもします。
これも身体感覚が主となってスイッチが切り替わっているからです。
これほど感覚というのは私たちにとって大きな力を持っているものなのです。
ですからたとえば嫌な場所や嫌な人物の前に身を置いた時には、好きな場所や人物のこと、その時の感覚を心に浮かべるのがいいかもしれません。
悪い感情を手放した時の感覚を少しずつ重ねていくことが、感覚記憶を塗り替えていくことになります。
この世界では、あれこれ熟慮するよりも実際に行動を取った方が具体的な結果を生みます。
行動とは流れであり、流れとは変化であるからです。
頭の中の妄想だけでは現実は変わりませんが、行動は現実を変えます。
そして行動のカギとなるのが「感覚」です。
感覚というのは肉体と心の中間にあると喩えられるかもしれません。
つまり目に見える物理的な肉体と、目に見えない精神的な心の、両方にオーバーラップしているということです。
いくら心が現実を創るとはいえ、物質で出来ているこの世にいきなり一足飛びで影響をもたらそうとしても、何より私たち自身が抵抗してしまいます。
しかしまずはその中間にある肌感覚に心を向けるならば、心そのものも柔らかくなりそこから物理的な影響も現実化するわけです。
ですから、感覚に心を開くというのは非常に大切なことなのです。
その感覚を鋭くするためには、心の耳を澄ますことになります。
つまり、集中することです。
他のことに意識が散漫になっている「ながら」状態では鈍ってしまいます。
頭でアレコレ考えている状態もおなじことになります。
何かを実現させようとする時は、感覚のセンサーを磨くのが近道と言えます。
感覚が先に行って、意識や理屈が後付けされるというのが自然であるように思えます。
たとえば願望実現法にも、まず感覚や肌感を具体的にイメージするというものがあります。
これは自分を包む感覚というものが身体に強く影響を及ぼし、潜在意識にも深く伝わり、結果、物理世界にまで響くことを示しています。
感覚というのはそれほど凄いものです。
だからこそ気をつけなくてはいけません。
昔の人は我執でそれを翳らせてしまうことを忌み嫌っていました。
ですから普段から慎ましく清らかであろうとし、何かにつけて禊祓いをしたのです。
私たちも、全身を包むこのモヤッとした感覚をいつも清らかにしておくのがいいと思います。
清らかな場所、スッキリする場所へ何度でも行ってその感覚を体に通すのはいいことです。
そのような場所では、それを吸収しようと気張らず、ただそこに居るだけで全身を風が吹き抜けて細胞が蘇ります。
大自然の中を歩いたり、静謐なるご神気に触れた時には、写真を撮ったりアレコレ頭で考えたりせずに、その空気の中に浸りきるのが一番です。
全身に流し、身体を通すと、天地自然と同化してまわりの心も流れてきます。
自分の心が相手の心と一つになります。
別の表現をすれば、相手の雰囲気や気配をそのままに自分のものとします。
すると、自分の心の中に色々なものが映ってきます。
それは自分の心でもあり、相手の心でもあります。
そのようにして私たち日本人は、相手の心を我が心として感じてきました。
身体に流れてくる感覚に耳を澄ませば、頭を使って理屈に走る心癖が少しずつ薄まっていきます。
感覚というのは、天地宇宙との会話でもあります。
そしてそれはいま目の前の人たちとの会話でもあり、今は亡きご先祖様たちとの会話でもあります。
それは決して特別なことではありません。
私たちは子どもの頃にそれを自然にやっていました。
ということは、それこそがごく自然な当たり前の状態ということです。
「難しい道だ」と自分でハードルを上げてしまうと本当にイバラの道となってしまいます。
一瞬で激変させることは無理な話ですが、少しずつ素直に耳を傾けていくことで、薄皮を剥がすように着実に変化していきます。
決してストイックな道でも険しい道でもないのです。
子どもの時の感覚を思い出せば分かります。
あの頃は、あれこれ考えずただ無邪気に楽しんでるだけでした。
今はそうでないということは、つまり今この瞬間、私たちは無邪気になってはいけない、楽しんではいけないと自分で決めつけてしまって
いるということです。
人生とはそういうものだと満足してしまったり、大人になるとはそういうものだと諦めてしまっているということです。
何のことはない、実は今この時が、険しくストイックな道そのものだったわけです。
感覚に耳を澄ませるということは、無邪気に楽しむための第一歩です。
自分の皮膚感覚、肌感覚というものは本当に凄いものです。
それは信じる信じないというものではなく、忘れてるか思い出すかというだけのことです。
そのためには、大自然の中に実際に身を置いて頭をオフにしてみるのが一番手っ取り早いでしょう。
また、真善美の作品に触れてみるのもいいと思います。
感覚に心を開くには、部屋にこもって悶々と考えてるだけではどうにもなりません。
まず物理的なアクションを取ることが必要です。
今すぐできることでは、電子機器を切った状態に身を置いてみるのが良いかもしれません。
電磁波は感覚を委縮させます。
本能的に閉じてしまうのです。
時々でもいいのでTVや音楽を消して、静かな中で目をつぶり、全身の毛孔から流れ込んでくる感覚に身をまかせてみてはいかがでしょうか。
あるいは湯船に浸かって、心を身体に預けてみるのでもいいと思います。
時間があれば、緑の中にたたずみ遠くのそよ風へと心を広げてみると最高です。
常日頃その状態を保つのは難しいかもしれません。
ただ、時折ふと外から内に流れてくる感覚に耳を澄ますだけで、人生はより豊かなものになるはずです。
この世は心だけでもありませんし、身体だけでもありません。
その両方がバランスよく自然に交流しているのが天地自然な姿です。
スッと頭の力を抜いて自分の身体に心を開けば、フワッとした感覚が外からやってきます。
そんな爽やかな風のあとには、今までとは違った景色が広がっていることでしょう。
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