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活き活きで長岡保平の取材で東北にいった番組を観る。場所は徒然茶房。食事をとりながらの反省会とH本ディレクターの慰労のような会である。
さて、番組の中で知った人が映っているのだが、いつもと動きが違うような気がする。カメラの力なのだろうか。どことなく皆さん大振りな動きをする。舞台の演劇のような感じもする。自分を演じているということなのだろうか。
自分の姿も映っている。客観的にみて頭髪の風になびく姿にものの哀れを感ずる。これは時間の問題であるな。今後は自分を省みないか、露出を控えるか。まあ、以前からそうではあるが、更に自分の姿は見たくないもののひとつになってしまった。
自分の声も聞くが、聞き取りにくいものだ。だいたい僕の発音ははっきりしないといわれていることぐらいは知っている。自分の話す分には言えば済む問題で、普段は聞く立場にない。ブロック協議会でO本委員長に発言内容を確認されることがある。そんなに詳しく議事録をとらなくてもいいんじゃないかと思うけれど、まじめに事業をまっとうされているのだからそういう非難は不当であろう。真にご迷惑をお掛けして申し訳ありません。
こうして改めて自分の声を聞いて複雑な気分で落ち込んでゆく。よくもまああれだけ聞き取りにくい発音を、わざわざすることもなかろう。
映画「トット・チャンネル」で黒柳徹子役の斉藤由貴が、ラジオの録音の自分の声を聞いて、「あれは私ではない」というようなことを言う。僕だって以前から自分の声と発音は否定したいと願ってきた。子供のころにお袋が僕らの声を録音して聞かせてくれた。聞きなれたきょうだいの声に混じって甲高い知らない人の声がする。不思議に思って誰だと問うと、それが自分の声なのであった。どうしてもあの時は納得できなかった。顔から火が出るほど恥ずかしく、歯がゆく感じたものだ。後の斉藤由貴は、僕の姿であったのだろう。
生活するうえで自分の声は人に聞かれているわけで、そういうことを意識すると、おちおち声を出す気になれない。仕方なく話をしなければならない機会に、自意識が過剰になると更にいけない。自分の声は聞いてはいけない。僕は未だにそう思っているのだろうか。結局聞き取りにくい発音になっても、自分の声を避けようとしている。
ある本に、泣きながら話をするなど言葉にならない状態を非難してはならないと書いてあったような気がする。言葉にならない話だから、それでいいのだという。息子達が早口で自分の楽しかった経験の報告をするのだが、ちっとも何の話かわからない。嬉しくて言葉がもつれ、先を急いで脈略がつかめない。しかし、それでもいいのか、と思い当たった。言葉にならない思いを話しているのだろう。
しかしながら僕の場合はそうではない。言いたいことを言って、相手に伝わっていない可能性がある。何しろ聞き取りにくいのだ。その分注意して聞く人もあるかもしれないが、多くは諦めてくれているのではないか。ただでさえ言葉ではまどろっこしいことをアクセントのはっきりしない言葉で説明しようとしているわけだ。
いや、それほど言葉の力を信じてもいけないのかもしれない。言葉だけで話してはいけない気もする。そういうことを考えて、言葉の問題は棚上げとする。多少はどうにかなるかもしれないが、もう少し先に行きたい思いのほうが強い。機械に録音されると言葉は固定する。あのときの僕は既に今の僕ではないのである。