カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

竹の秋

2008-05-08 | 散歩
 竹の葉がすっかり黄色くなっている。普通は四月ごろを「竹の秋」と言っているようだけれど今がそうなのだろうか。筍に養分を送るために葉が黄色くなるといわれている。初めてみた時は、竹藪全体が枯れているように見えて少し驚いた。誰に教わったか忘れたが、何で枯れたのだろうというと笑われた覚えがある。それぐらい春の常識的な現象なのだろう。しかしながら新緑の緑の鮮やかな中、ひときわ悲しげな光景ともいえる。もちろん何が悲しいかはよくわからないのだが…。筍の伸びる喜びとは対照的に、何か悲しげな感じがするものだ。
 竹の葉は、今の時期に限らず風が吹くとよく舞っているものだけれど、特に今の時期は枯れているせいもあるのだろう、盛大に散らして舞っている。雨樋などに詰まって悪さをするので時々屋上にのぼって掃除しなければならない。しかし竹の葉というものは、普通の木々の葉とは違って細長い。狭い隙間にまで入り込んで、なおこびりついて掃除が厄介である。
 竹というのは。勢力をのばして森を侵食する力強さが時に脅威を感じさせられるものである。竹藪は人間が手入れしなければ、鬱蒼と茂ってやたらに侵食するようだ。そうして通り道などに倒れてきて厄介にふさいでしまったりする。雨風の強い日の通勤時に、外に出て竹の木を整理する。だから早くに出勤する人は、時には朝からすっかり濡れネズミになってしまう。
 中国や香港などに旅行したことのある人なら見た覚えがあるかもしれないが、高層ビルの足場などに竹が使われていることが多い。実に見事に組んであって、竹なんかで大丈夫だろうかという不安も感じないではないにしろ、むしろその英知に感嘆してしまう。長崎では精霊流しの舟などで竹材を使うのでいくらか馴染みがあるだろうが、ほかの地区ではどのような使われ方をしているものだろうか。楽器に使われたり、箸になったりは見かけることがある。最近は竹炭などもよく見るようになった。以前と比べてどうなのかはわからないが、依然として使われる素材なのかもしれない。
 僕の家は山の小高い途中にあった(今でもあるが)ので、子供のころは竹の葉で船をつくって側溝に流れる水に浮かせて追いかけながら登校した。坂道を降りてしまって平坦な道になると、とても残念に思った。また坂道を登ってやり直すことまではしなかったが、翌日になるとまた船を流して追いかけるのだった。今なら交通量も増えてしまったし、危険だと言って母親に叱られるのかもしれない。確かに命と引き換えにする遊びではないのかもしれないが。
 散歩の途中にも竹藪があって、風が吹くとざわざわとざわめき、時にカコーンと、甲高い音を立てる。杏月ちゃんはこの音に驚いて、しばらく竹林を見つめている。また風が吹くと先を急ごうというように僕を見る。僕の見えていないものがあの林の中にあるのかもしれないなあと思いながら、杏月ちゃんに同意して歩きだすのだった。
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