カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

本当に手をつけるべきところは現場ではない

2008-05-28 | 雑記
 教育についての話が聞けるというので出かけてゆく。二本立てで話が聞けてお得であった。まあ、タダだし。
 しかしながらこういう話を聞いていると、教育論というのはつくづくむつかしい問題なのだとも感じる。僕は「親はあっても子は育つ」という考え方だから、どんな教育であってもある程度はどうでもいいんだけれど、政策として教育を考えるということになると、ちょっとこれは検証の難しさばかりに目が行ってしまう。最初の論者のいうように、ある程度戦後の日本の教育を評価した上で物事を考えなおすという前提がなければ、かえって改革は危険な側面もあるように思える。何故かというと、全否定でひっくり返すような改革をしても、もしそれが間違いであったり上手くいかないと評価できるまで相当の時間がかかるからである。だからといって今のままでいいのかというと、それはやはり今の否定や問題点から洗う必要があるわけで、簡単に検証のできないもので、その上に安易な感情論が通りやすい現実もあるようで、提言が難しくなるのかもしれないと思った。
 しかし難しいとばかりも言ってられない。いろいろあるにせよ、今の教育の問題点であんがいどうも嘘が多いと思うことがあるのも確かである。ひょっとすると言っている人もいるのかもしれないが、聞こえてこないだけなのだろうか。
 教育と学力という問題は、本当に矛盾することなのかどうか、という疑問が僕にはあるようだ。少し戻って考えると、「ゆとり教育」への不信というのが、世間一般にあるというのが、現在の立ち位置だと思うからだ。
 ではなぜ「ゆとり教育」という考え方が生まれたかということだが、受験戦争といわれた学力重視の詰め込み教育の行き過ぎの反省からであると、大筋では考えられる。いい大学に入って一流企業へ入社するというコースをたどる事が、明確に人生設計として安定した収入を得られる道であると信じられた時代背景がそこにあるからである。それはぜんぜん間違っていなくて、生きてゆく上での収入を重視するのであれば、今であっても通用する概念だと思う。もちろん経済成長自体が鈍化しているので、その明確さに陰りが出ているといえるだけのことで、日本の社会においては学力というある程度の客観性のある能力を伸ばすことが、成功への重大要素であることにかわりはない。だから今でも多くの親の最大の関心事が子供の学力であるのは、純然たる事実だろう。
 では、ゆとり教育の反省とは誰がしていたのか。これは、確かにその時の世論がそうだったということも言えるのだけれど、本当にそうだろうか。実はこの問題を指摘していたのは、多くは教育の現場サイドの声だったのではないか。確かに学力重視は親の行き過ぎた期待を膨らませすぎてはいたが、それを受けていいる教育界そのものが悲鳴をあげていたということではないか。親の方が子供に学力なんていらないからゆとりを与えたいと考えたというより、もっとゆとりを持たせて教えてやりたいという教育現場の声の方が大きかったのではないか。そうであるからゆとりの発想そのものが、逆に漠然とした親の不満を膨らませていったのではないか。根本的なゆとり見直しの機運は、間違いなくそこから生まれていると僕は疑っているのである。
 子供の学び方を変える考え方を取り入れることで何が一番変わるのかというと、実は教師の働き方が一番変わるのである。学校週五日制になることで、子供の勉強する時間が減るということと同時に、それだけ教師が働かなくなったという不信感の方が膨らんでいったようにも思う。いつの間にか先生は夏休みも学校に出勤するようになったりしてほころびを直そうと躍起になっていたけれど、全然それも評価されなくなった。根本的な不信払拭に至っていないからだ。子供の数が減って行っているのに、少人数学級(自然にそうなるのは全然かまわないけれど)などといって先生の数は減らずにむしろ増えていく。ひょっとして、国民は騙されていたのではないかとようやく気付き出したということではないか。教育を盾に、教師の職場改善(というか、既に羨むべく立場なのだろうが)が図られていたというのが実態なのではなかったのか。次々にダメ教師の追及がなされるようになってくると、今度は給食費未納だとかモンスターペアレントというダメ親との対決という図式が浮かび上がってくる始末である。学校側が指摘する問題点は、自分の保身からくる逆襲のようなものである。もともと親と教師の対立の図式を作り出した背景は、このような一連の流れから見て、実は教育改革が発端だったような気がする。
 まあ、しかし、たとえ親がひどかろうと教師が無能だろうと、それはある程度当然のことである。絶対悪はこの世からなくなりはしない。だからと言って全面的に容認するわけではないが、単純に対立構造とすることの方が問題である。この場合の協力体制こそ、お互いに共通する本当の利益だからである。
 もうひとつ世間一般がまったく勘違いしていると思われる考え方を指摘しておく。競争原理が学力のない人間や問題のある人間をふるい落としてしまうというのは、必ずしも本当ではない。実際に子供に何かを教えてみると簡単に実感できることだが、勉強のできる子や、ひねくれていない子は、大してかかわらずとも自ら学習する能力がある。ひらたく言うと、ほとんど手がかからない。一所懸命手をかけなければならないのは、圧倒的に学力が低く問題のある子供なのである。ふるいにかけるどころか、競争原理が働くことで、そういうところに重点的に手をかけることが普通になっていくのである。事実、塾など個別に料金を取るシステムだと、そういう子供を簡単に投げ出すわけにはいかない。最初から試験で選別するところもあるだろうけれど、底辺こそ重点を置かれて手をかけられることになるのである。最初から落ちこぼれや、平等教育に重点を置くことで、かえって底辺から這い上がるチャンスをつぶしていることが多くなっていたというのが、今までの弊害だったのである。子供の個性が重要だというのなら、しっかりと個人差を認めることの方が大切だ。確かに競争の行き過ぎるということはあるにせよ、上下のある関係性の方が人間社会の自然な姿であるといえる。現実に即して対応するという視点がない限り、問題の根本解決にはならない。現実を読みこむ時点で嘘の情報が入ることで、行動を誤ってしまうのである。
 教育基本法などの文章を読んでいるとすぐにわかることだが、具体的な内容が全く見えてこない。基本的に語れないことを書いてあるのではなく、内容を書けないような嘘で塗り固めている所為である。すでに教育のプロであるはずの教育界の信用が揺らぎすぎている。その元をしめている文部科学省の改革こそ、実は早急性が高いのであろうことは、誰でも薄々気づいていることだ。現場にだってやる気のない人間ばかりなのではない。手始めに教育委員会から多くの権限を校長に委譲するだけで、かなりの効果があるだろうことは簡単に予想できることだ。市場原理がすべて善へ導くとは限らないが、行き過ぎた権限の締め付けが、教育現場を腐らせていることは間違いのないところであろう。
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