天然コケッコー/山下敦弘監督
ことわざとか文学作品だとかは、女に関する記述において当たり前のように男性視点であることが多い。今でこそ女流何とかという人も増えたが、以前は男の記録が断然多かったためだろうと思う。僕自身は男なので、そんなことには全く気付いていなかった。当然のように女というのはわかりにくいものであって、犯罪の陰には女ありというような、ちょっと恐ろしいような生き物だというイメージが定着していた。まあ、実際そうなんだけど、それでもこれは男性視点なのだな、と思うのは、少女漫画を読んでいたという経験があったためかもしれない。
くらもちふさこは確か高校生でデビューしたのではなかったか。すぐに大変な人気が出たのではないかと思われる。僕は小学5年ぐらいから別マを買っていたように思うので、すぐにくらもちふさこに取りつかれたクチである。既にロック少年だったから、くらもちの描く青年には好感がもてた。そして初めて女視点というものにかなり違和感を覚えながら、真摯に学んだということなのかもしれない。女が男を見るというのが、実はこんな世界なのだというは、かなりの衝撃だったかもしれない。リボンなどで陸奥A子を読んでいてもわからなかった女視点という世界は、少年の僕には少なからぬショックだった。
くらもちの描く男の子は、僕の側から見ると、やはり少し勘違いがあるとは思う。しかし、そのことがリアルな間違いであるとは言えない。女の視点から男はこのように見えているということが重要で、この方がリアルだということが何より凄いことのように思う。ああ、これは女は男を本当には理解し得ないのかもしれないな、とも思うし、男が女の理解をする不可能さもよくわかるのである。生物学的に種が同じだが、差別という意味でなく、別の生き物であるということは間違いないと思わせられた。しかしそういう女心を少年である僕に理解させる力量が凄いのであって、必ずしも文学的でないにもかかわらず、娯楽でありながら芸術的世界を構築できていたのであろう。
しかしながらこの映画の原作を読んでいたわけではない。原作がくらもちであることも知らなかった(僕は現在少女漫画を読まなくなった)。しかし映画を観だしてしばらくして、主人公の男がくらもちふさこに出てきそうな奴だなあと思った。主人公の女の妙な葛藤まではくらもち的だとは気付かなかったけれど、それだけでも原作に忠実なのではないかと思った。
一見クールなんだけど、やはり少年というものは幼い。言っていることには強がりが入る。表裏がないようでいて、相手が理解しなければわからないようなことをする。女にももちろんそれはあるけれど、女の場合は理解してほしいという度合が少し表に出るような気がする。そういう断面の切り方がうまいのかもしれない。ギリギリわかりにくい本心が男を魅力的にするのかもしれない。もちろん美男という要素も必要かもしれないが…。
いや、もてようと思ってくらもちを読んでも失敗するのではないかとも思う。この世界は女が勝手に抱いている世界であることは間違いがない。そして多くの女が共感と理解をするにせよ、結局はパーソナルな視点なのである。仮にくらもちの描く男になりえても、もてるのはくらもち自身からではないのだろうか。普遍的に大多数から好かれる人間ではないような気がする。だからこそ彼女に選ばれたのだ。
結局は蓼食う虫も好き好きなのかもしれない。そうでなければ、男女の生まれ分けられた甲斐がない。もてるもてないより、パーソナルに好きあえるかどうか。彼女の作風から僕の受けたメッセージは、それであったのかもしれない。
ことわざとか文学作品だとかは、女に関する記述において当たり前のように男性視点であることが多い。今でこそ女流何とかという人も増えたが、以前は男の記録が断然多かったためだろうと思う。僕自身は男なので、そんなことには全く気付いていなかった。当然のように女というのはわかりにくいものであって、犯罪の陰には女ありというような、ちょっと恐ろしいような生き物だというイメージが定着していた。まあ、実際そうなんだけど、それでもこれは男性視点なのだな、と思うのは、少女漫画を読んでいたという経験があったためかもしれない。
くらもちふさこは確か高校生でデビューしたのではなかったか。すぐに大変な人気が出たのではないかと思われる。僕は小学5年ぐらいから別マを買っていたように思うので、すぐにくらもちふさこに取りつかれたクチである。既にロック少年だったから、くらもちの描く青年には好感がもてた。そして初めて女視点というものにかなり違和感を覚えながら、真摯に学んだということなのかもしれない。女が男を見るというのが、実はこんな世界なのだというは、かなりの衝撃だったかもしれない。リボンなどで陸奥A子を読んでいてもわからなかった女視点という世界は、少年の僕には少なからぬショックだった。
くらもちの描く男の子は、僕の側から見ると、やはり少し勘違いがあるとは思う。しかし、そのことがリアルな間違いであるとは言えない。女の視点から男はこのように見えているということが重要で、この方がリアルだということが何より凄いことのように思う。ああ、これは女は男を本当には理解し得ないのかもしれないな、とも思うし、男が女の理解をする不可能さもよくわかるのである。生物学的に種が同じだが、差別という意味でなく、別の生き物であるということは間違いないと思わせられた。しかしそういう女心を少年である僕に理解させる力量が凄いのであって、必ずしも文学的でないにもかかわらず、娯楽でありながら芸術的世界を構築できていたのであろう。
しかしながらこの映画の原作を読んでいたわけではない。原作がくらもちであることも知らなかった(僕は現在少女漫画を読まなくなった)。しかし映画を観だしてしばらくして、主人公の男がくらもちふさこに出てきそうな奴だなあと思った。主人公の女の妙な葛藤まではくらもち的だとは気付かなかったけれど、それだけでも原作に忠実なのではないかと思った。
一見クールなんだけど、やはり少年というものは幼い。言っていることには強がりが入る。表裏がないようでいて、相手が理解しなければわからないようなことをする。女にももちろんそれはあるけれど、女の場合は理解してほしいという度合が少し表に出るような気がする。そういう断面の切り方がうまいのかもしれない。ギリギリわかりにくい本心が男を魅力的にするのかもしれない。もちろん美男という要素も必要かもしれないが…。
いや、もてようと思ってくらもちを読んでも失敗するのではないかとも思う。この世界は女が勝手に抱いている世界であることは間違いがない。そして多くの女が共感と理解をするにせよ、結局はパーソナルな視点なのである。仮にくらもちの描く男になりえても、もてるのはくらもち自身からではないのだろうか。普遍的に大多数から好かれる人間ではないような気がする。だからこそ彼女に選ばれたのだ。
結局は蓼食う虫も好き好きなのかもしれない。そうでなければ、男女の生まれ分けられた甲斐がない。もてるもてないより、パーソナルに好きあえるかどうか。彼女の作風から僕の受けたメッセージは、それであったのかもしれない。