悲しい本(Sad book)/マイケル・ローゼン(文)クエンティン・ブレイク(絵)翻訳谷川俊太郎(あかね書房)
絵本。題名の通り、ある男が悲しんでいる本。エディという息子を亡くし悲しんでいる。ママもここにはいない。悲しみを話す相手がいない。何の事情か知らないが、家族とは暮らしていない孤独な生活なのだろうか。息子との楽しい出来事をあれこれ思い出し、そうして特に誕生日のことを思い出すのだった……。
まあ、詩というか、そういう言葉と絵が連動している。自分一人で抱え込んでいる悲しみのこと、なのかもしれない。具体的には息子の死が、ここではたいへんに大きい。しかしその裏にも、何かの悲しみが隠されている様子がわかる。男は孤独で、その悲しみを癒す術が、自分の想像力以外にない。そうして悲しみは増幅し、自分自身を包み込んでしまうかのようだ。
悲しい時に悲しくないふりをすると、どうなるか。ふりをしているだけだから、やはり本心は悲しい。じゃあいっそのこと素直に暗い顔をしていると、どうか。さらにふさぎ込んでしまう。違う事を考えたらどうだろう。考えようとしても、どうしても悲しいことを思い出してしまう。散歩に行ってはどうだろう。道ゆく人が、無神経で嫌になる。
ひとには様々な悲しみがある。取り返しのつかない悲しみもある。それに抗える術なんて、ほとんどない。悲しいは、その目の前にあるすべてなのだ。
でもそれでどうなるのだろう? 僕には分からない。悲しいときは悲しんでも、悲しいがそれで仕方がない。いつまでどこまで悲しいのか。人それぞれなんで、どれくらいで十分悲しんだかなんて、わかり得ないじゃないか。それぞれの悲しみのふちに陥りながら、出来れば孤独なままでなく、悲しんでいけたらいいんじゃないか。ひとりなら……、それは更に悲しすぎる。
そんな本を読んで楽しい訳が無いが、楽しくなるための本では無い。十分悲しみに付き合ってあげたらいいのだろう。