松本零士が亡くなった。僕は小学生高学年くらいの時、なんだか必死で漫画を描いていた時期があって、実は松本零士を結構模写していたのである。最初は石森章太郎をまねていたが、よりベタの多い松本零士に鞍替えした。さらにメカの絵では、なるべく計器類をたくさん描いてそれらしくみせるのだが、それも松本零士の影響だった。しかしメーテルのような細めの美女は、描くのが難しくて断念した。美しかったり可愛かったりする女の人を描くのはあんがいむつかしい問題で、さらにあの松本零士の美女像というのは、独特のタッチとバランスによって成り立っていて、完全にまねしないとああいう風にならないのである。さらに松本零士は少年漫画にしてはそれなりにエッチっぽい裸の女性をたくさん描いていたが、しかし服を脱いでいることは確からしいが、なんとなくぼんやりして描きにくいのである。なのでともかく僕はエッチな漫画を描いていたわけでは無かったので(これは本当のことです)、そういった要素はすべてすっ飛ばして男だけの世界を描いていた。
999は、映画も父と一緒に観たと思うのだが、観終わったら「今の子供はこういうのが面白いと思うのか」と父が言っていた。僕は何と答えたか忘れてしまった。
当時999をスリーナインと読むのは英語的にはどうなのか? 論争があった。しかしまあ、読んでしまったものは仕方が無いのと、別段日本の漫画だし、作者が設定した読みなので問題ないと言われていた。そういうことを松本零士が語っているものか知りたかったが、よく分からなかった。
友達のお兄さんが「男おいどん」を結構持っていて、それを遊びに行った折に盗み見して読んだ。四畳半シリーズという分野があって、とにかく男は汚く、女性は美しい妙な世界観なのであった。よく考えてみると他の松本零士作品ともほとんど共通するものではあるのだが、こういう情けなさと男らしさが一体となった怨念のようなものが、作者の中にあったのだろうか。僕は無頼派とはいえないどちらかと言えばヒッピー的な軟派な人間だが、このような松本零士の男性像には少なからず影響を受けたのではなかろうか。
その後コミックはいくつか買った覚えがあるが、おそらく母親に当時の漫画はすべて捨てられてしまった。ちょっともったいなかったが仕方がない。今考えても正確にそれらの物語を、いわゆるスジとして覚えてはいないのだけれど、ちょっと哲学的な謎のある作風もあって、やっぱりかっこよかったのに憧れていたのだろう。ご冥福をお祈りいたします。合掌。