イノセンツ/エスキル・フォクト監督
大友克洋の漫画に影響を受けているというのは、観ていてもすぐにわかった。団地の乾いた風景や、子供たちの、少し残酷で無邪気な遊び方と、その微妙なずれた感じは、北欧の独特な閉塞感と共にうまく表現されていると感じた。嫌な雰囲気はあるものの、何かそれなりにその力の加減の仕方次第では、いい方向へ行くのではないか、という期待もある。しかし歯車がかみ合わなくなり、その力も一人が強くなりすぎると、歯止めが利かなくなる。そうして、そういう変化に、大人たちはちゃんと向き合っては、理解することができないのである。
一つのエピソードとして、この事件の大きなものに巻き込まれる母親がいるのだが、操られた上に、大きな罪を背負わされてしまうことになる。これだけは、ちょっと倫理的に日本では考えられないものでは無いか、とは思った。少し重要なので明かせないが、この事件を挟み込むことは、日本の作者はおそらくためらうと思う。母親を使ったとしても、直接殺す手段には至らないのではあるまいか。それだけ重たいことだし、社会的にも断罪されることが分かっているので、もう少し工夫するのではあるまいか。こういうのは感覚的な問題かもしれないが、ちょっと文化的に恐怖感の違いがあるのかもしれない。
しかしながら考えてみると、大友作品も乾いた残酷さがウリであった。倫理観にも乏しい。そういうものが大人たちを破壊する強烈なカウンターになっていて、そうして若者に支持されたのだ。当時の若者、つまり僕たちだが。そうして僕たちは、いつの間にかそれに耐えられなくなる大人になってしまった、という訳かもしれない。
ホラー作品ではあるが、特段寒くなるような怖さではない。そういう不気味で、いやな感じが付きまとう、爽快感のない暗さが、しかしべったりとではなく、乾いた感じで描かれる。観ていて楽しい訳ではないのだが、なんだか気になるものが残るのも確かだ。それは北欧の閉塞感がそうさせるのかもしれないし、大人として気づけない何かに対する喪失感かもしれない。白人とアジアや異文化との融合されない何か、かもしれない。社会はそうなっているのに、個人の感覚は、そう簡単に変われない。僕はアジア人だから、そういう白人視点にも敏感になってしまうのかもしれない。少なくとも彼らはそれにおびえている。理解を越えた何かを嗅ぎ取っているのかもしれない。