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BLOGに書いておけば少しは何か残るか、 と、気持ちを新たにしているつもりな。 |
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謎のコンデルさん
明治時代、日本の近代化のために多くの「お雇い外国人」が招聘されました。
建築界ではなんといってもジョサイア・コンドル。
明治10(1877)年に若干25歳で来日、工部大学校(今の東京大学)で教鞭をとり、
日本の第一世代建築家を育てると共に、数多くの建築を設計しました。
彼の設計した邸宅の一部は今でも残っており、重要文化財に指定されているものもあります。
公開されているそれら邸宅からは、優美で華麗なヨーロッパ邸宅建築の真髄が伝わってきます。
・・・ということなんですが、そのコンドルさん、皇居の計画もしていたのだそうです。
それでちょとへぇ、と思って評伝なんかを読んでみたのですが、なかなか魅力的な、謎の多いヒトなんですね。
日本建築界の礎を築いた人なのに、ある時期お墓すら忘れ去られていたのもびっくりですが、
なぜ日本に来たのかも、いろいろ憶測はあるにせよ、当人が日記を書く人ではなかったせいもあり、
(当時の知識人としては珍しい?)本当のところは良くわからないらしい。
あーそうっかぁ、と思ったのは、先ほど人物紹介のところに書いたように
彼には「教育者」と「建築家」、二つの側面があったわけですけど、
実は現存しているコンドルの建築(主に邸宅群)は、「教育者」から引退
-ということは、「国家の建築家」の座を失ったということでもあったのですが-
後に、岩崎家を始めとした民間の施主からの依頼に基づいて設計した作品なのだということ。
かの有名な鹿鳴館をはじめ、上野博物館、海軍省などの国家発注による建築は一つも現存していないので、
皇居の設計まで委嘱された「国家の建築家」時代のコンドルの建築は見ることができないのです。
じつはこの「国家の建築家」であった時代のコンドルのデザインは
まっとうな?歴史主義建築とはちょっとテイストが違っていて、東洋趣味が入ったものだったようです。
これはコンドルが西洋と日本の伝統の融合を真剣に考え、その結果
両者の中間地帯にあるイスラムのデザインを採用するのが妥当と判断した結果らしいのですが、
この発想が奇妙かといえば、歴史様式主義が持つ折衷主義的な方法論からすれば
「別にありなんじゃないの?」という気もするのです。
(伊東忠太や、晩年の長野宇平冶を予言していると言ったら言い過ぎ?)
(・・・まあ、デザインとしてこなれているかは別問題のような気がしますが、
こればっかりはやっぱり実物が見れない今となってはなかなか判断が難しい気もします)
これをコンドル個人のロマン主義的傾向によるものとして説明するのもひとつの考え方とは思いますが、
伝統と近代、あるいはオリエンタリズムの問題としてもう少し広いフィールドで捕らえたほうが、
非常に幅広い領域に関心を持って「日本」に向き合った一人の西欧人の可能性を
今日的な課題とすることができるようにも感じました。
それにしても、こういった重要なモノが残らない日本というのはホンと厳しいなーと思います。。
建築界ではなんといってもジョサイア・コンドル。
明治10(1877)年に若干25歳で来日、工部大学校(今の東京大学)で教鞭をとり、
日本の第一世代建築家を育てると共に、数多くの建築を設計しました。
彼の設計した邸宅の一部は今でも残っており、重要文化財に指定されているものもあります。
公開されているそれら邸宅からは、優美で華麗なヨーロッパ邸宅建築の真髄が伝わってきます。
・・・ということなんですが、そのコンドルさん、皇居の計画もしていたのだそうです。
それでちょとへぇ、と思って評伝なんかを読んでみたのですが、なかなか魅力的な、謎の多いヒトなんですね。
日本建築界の礎を築いた人なのに、ある時期お墓すら忘れ去られていたのもびっくりですが、
なぜ日本に来たのかも、いろいろ憶測はあるにせよ、当人が日記を書く人ではなかったせいもあり、
(当時の知識人としては珍しい?)本当のところは良くわからないらしい。
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あーそうっかぁ、と思ったのは、先ほど人物紹介のところに書いたように
彼には「教育者」と「建築家」、二つの側面があったわけですけど、
実は現存しているコンドルの建築(主に邸宅群)は、「教育者」から引退
-ということは、「国家の建築家」の座を失ったということでもあったのですが-
後に、岩崎家を始めとした民間の施主からの依頼に基づいて設計した作品なのだということ。
かの有名な鹿鳴館をはじめ、上野博物館、海軍省などの国家発注による建築は一つも現存していないので、
皇居の設計まで委嘱された「国家の建築家」時代のコンドルの建築は見ることができないのです。
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じつはこの「国家の建築家」であった時代のコンドルのデザインは
まっとうな?歴史主義建築とはちょっとテイストが違っていて、東洋趣味が入ったものだったようです。
これはコンドルが西洋と日本の伝統の融合を真剣に考え、その結果
両者の中間地帯にあるイスラムのデザインを採用するのが妥当と判断した結果らしいのですが、
この発想が奇妙かといえば、歴史様式主義が持つ折衷主義的な方法論からすれば
「別にありなんじゃないの?」という気もするのです。
(伊東忠太や、晩年の長野宇平冶を予言していると言ったら言い過ぎ?)
(・・・まあ、デザインとしてこなれているかは別問題のような気がしますが、
こればっかりはやっぱり実物が見れない今となってはなかなか判断が難しい気もします)
これをコンドル個人のロマン主義的傾向によるものとして説明するのもひとつの考え方とは思いますが、
伝統と近代、あるいはオリエンタリズムの問題としてもう少し広いフィールドで捕らえたほうが、
非常に幅広い領域に関心を持って「日本」に向き合った一人の西欧人の可能性を
今日的な課題とすることができるようにも感じました。
それにしても、こういった重要なモノが残らない日本というのはホンと厳しいなーと思います。。
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