「chanpain night 華やかさの影、横たわる思い。chanpain night 気まぐれな街で誰もが夢見て chanpain night 夜が明ければ、海の泡よりもはかない。海の泡よりもはかない」
(篠原美也子『パーティー』1994年 より引用)
クリスマス、終わってしまえば、海の泡の如し。それまで華やいでいた物が日にちが過ぎたら、物哀しく、祭の後的な感じがしてならない。
そんな中、ふと思った事が2つある。
1つ目は、
「毎日がクリスマスだったらいいのに」
という言葉の意味を今更ながらに気付いた事。
何故、毎日がそんな日だったら良いのにと思うのか?それは、世間的に「クリスマスが来る事を歓迎している事」、「クリスマスが楽しい特別な日で楽しさと嬉しさを感じられる」と言う「期待感」に満ちているからだと思う。それだけ日常が良いも悪いも同じ事の繰り返しで、その日1日1日に対する「期待感」は「余程の事が無い限り薄い」物という事になる。しかし毎日が特別な日続きでは、疲れてしまうかも知れないし、「楽しい事、嬉しい事」に「飽きて来る」かも知れないので、机上の論理でしかないが、「1日1日が胸が踊る特別な日である」事を「望みたい」所である。
2つ目は、「クリスマスを迎える準備をする事に楽しさを感じ得る秘訣がある」ということ。私は、物事を迎え入れる為の準備というのは、学生中期から後期にかけての「嫌な記憶」と「無類の不精横着者」なので、準備は嫌いな質でなので、一生かかっても「感じられないもの」かも知れない上に準備に苦痛を感じては「意味をなさない」事は言うまでもない。
だが、街のクリスマスツリーにネオンそれに家家のクリスマス飾りを見れば「ああ、クリスマスか」と言う「期待感」を与える物がある場合もあろう。期待を込めて準備をして思惑通りの「結果」が得られれば、喜びもまた一塩になるようで。
かつて、“Dream days 2008”とタイトルをつけた「ブルートレインに乗って撮影してみよう」と言う企画を立ててくれた方に同行させて頂ける機会を得たが、私は一切事前準備には携わらず、その人任せで同行したので、やってみても「実感がわかず」で、「楽しさ・嬉しさはあった」けれども「無感動」だったのは、企画の準備を丸投げしたが故だったんだなと思うし、「あまりの初めてが多いハイグレートさに感覚が追いつかなかった」というのもあるが、何とも情けない話である。
そんな話すら思い出す時になったが、クリスマス、終わってしまえば儚し、なのは、事前に何の準備も予定も立てず立たずで、漫然と過ごしたが故の結末であるが、終ってしまったことは事実で、次なる‘‘特別な日,,は「元日2011:平成23年」になるのだろうが、何の予定も企画も立ててない私は漫然とその時を迎えるのだろう。
日々に期待感を持つには何でも良い、「迎え来る日へ向かっての計画を立てる事」にあるのかも知れないが、それが「生易しいものではない」ということをそえておこうか。