ひねもすのたりにて

阿蘇に過ごす日々は良きかな。
旅の空の下にて過ごす日々もまた良きかな。

名も知らぬ駅に来ませんか -8-

2008年06月15日 | 「名も知らぬ駅」に来ませんか
カウンターにFちゃん一人のところに、I さんがふらりと入って来ると、
2つ隣の椅子に腰を下ろした。
今日はマキちゃんはお休みだ。
Fちゃんは、ちらりと I さんに視線を配ると、すぐに顔を戻してカクテルに口をつけた。

Fちゃんの好みは、マリン・スノーのような比較的軽めのもの。
マリン・スノーは、ブルー・キュラソーとカルピスをグラスでステアし、
ソーダとビールでグラスを満たして再度ステアする。
マリンブルーの海に雪が降ったイメージのカクテルである。

Fちゃんは、わたしがちゃん付けで呼ぶように、古くからの知り合いである。
わたしが自分の店を持つ前に勤めていたクラブでホステスをしていた。
もう40才を超えるかも知れないが、怖くて本当の年齢は聞けない。
数年ぶりの来店であるが、いくぶん年齢は重ねたものの、男好きのする容姿には変わりがなかった。
今では店を辞め、何とか暮らしているらしいが、詳しいことは言わない。
ただ一言、「男はいないわよ。」と、わたしの憶測を封じた。

最近は、ほとんど街中に出ることもなく、静かな暮らしをしているということだが、
今日は何故か人恋しくなって、わたしにの店に来たという経緯だった。
「またしばらく来ないから、ゆっくりさせてね。」と言ったFちゃんは、
0時を回って、他の客がいなくなってからは、わたしを相手に昔話を楽しんでいた。
丁度その時に、I さんが来たのだ。

I さんは一見興味なさそうなふうだが、Fちゃんの存在が気になるようだ。
多分2人の年齢はほぼ同じくらいか、少し I さんが上というところか。
だとすると、その雰囲気で一目見た男を惹きつけるFちゃんの存在は、わたしだって気になるだろう。
Fちゃんも、カジュアルな服装の中に、生真面目な様子を匂わせる I さんが気になったようで、
「初めまして。お一人ですか?」と自分から声をかけた。

「こんなものしかなくて済みません。」わたしは、I さんの前に簡単なサラダの皿を出した。
新鮮な大根を千切りにし、レタスも細く切って水にさらし、皿に上げる。
蕎麦をカリッと揚げた蕎麦かりんとうを、小さく砕いて野菜の上に散らし、
和風のドレッシングをかけ、きざみ海苔を振りかけるだけの簡単なものだ。

わたしがそう気づいたときは、二人は既に隣同士になって話し込んでいた。
確かに、2席も間をおいての会話はいかにも効率は悪い。
I さんと話しているFちゃんの顔は、わたしと話していたときのような、
どこか隠遁生活者のような遠い目付きではなかった。
静かだが、熱の入った風な話し方は、Fちゃんが、これからは少しは世間に顔を出すだろうと予感させていた。

「マスター、私帰ります。」と、Fちゃんは立ち上がった。
その前に、わたしは、FちゃんがIさんに小さな紙切れを渡すのを目の端に捕らえたが、素知らぬ顔で、
「お愛想は今度でいいよ。」と言ってみた。
「じゃあ、お願い。」Fちゃんは近いうちに来るのが当然のように返事をして出て行った。

一人残された I さんは、
「電話番号もらっちゃった。」と照れたような笑みを浮かべて、誰にともない口調で言った。
わたしは、軽く頷いてみせたが、I さんには子どもはいないが、奥さんはいたはずだと思い当たり、
なんとはない不安が胸をよぎった。

Fちゃんはただの客ではない。
昔からの知り合いというより、昔の同僚だ。
静かな暮らしから抜け出して、世間に出てきてまた辛い目に遭えば、再び自分の世界にこもってしまうだろう。
だが、Fちゃんが自分で選んだことなら、それも人生だ。
わたしにできるのは、ただカウンターの中から見ているだけなのだ。

その後2人がどうなったかですって。
お客さんのプライバシーを話すことはできませんが、ヒントくらいなら・・・。
それでもよければ、一度名も知らぬ駅に来ませんか。

※この話及び登場人物も基本的にはフィクションです。
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