ひねもすのたりにて

阿蘇に過ごす日々は良きかな。
旅の空の下にて過ごす日々もまた良きかな。

名も知らぬ駅に来ませんか -9-

2008年06月21日 | 「名も知らぬ駅」に来ませんか
Wさんが、「こりゃ、美味い」と友人2人にも勧めている。
韓国海苔の上に、細く切った四葉きゅうりと、同じく細切りの大根を載せ、
酒とみりんでとかしたコチジャンを弱火で練ったものに、ほんの少しマヨネーズを混ぜたものをかけてある。
これを海苔で包んで食べるのだが、意外とさっぱりしている。

そのWさんが、連れの友達と3人で話し込んでいるところに、
20代と思われる2人連れの女性客が入ってきた。
初見のお客さんである。
「いらっしゃい」と、マキちゃんがおしぼりを出す。

一人の女性が、
「済みません、アレキサンダーを頂けます?」とマキちゃんに言うと、
女性側に一番近い席のWさんが、フッと彼女に目をやった。
その女性がオーダーしたアレキサンダーに反応したのだろうか。
アレキサンダーは、ブランデーにクレームド・カカオと生クリームを加えてシェイクする。
イギリス国王エドワード7世が、デンマーク国王の長女アレキサンドラとの結婚を記念して奉げたカクテルでもある。

Wさんは40代で、しがない公務員だと言っているが、詳しい話しはしない。
友人2人も同業者らしいのは、話しの端々に見てとれる。
Wさんは友人2人で話しをしながらも、アレキサンダーを飲んでいる女性に、何となく気をとられているようだ。
そんな中、常連のお客さんが3人連れでやって来た。
「済みません、そこ、詰めてもらっていいですか?」というマキちゃんの声で、
Wさんたちと女性2人連れの間に1席と、その反対に2席の空席があったので、
女性2人がWさんの横に移動することになった。

しばらくして、意を決したようにWさんが隣に来た女性に声をかけた。
「アレキサンダーにまつわる話しを知っていますか?」
と、女性は穏やかだが意志の強そうな眼で、じっとWさんを見つめると、
「ええ、ロイヤルウェディングに献上されたカクテルということは。」
白い歯を見せて答えた。
「そうですか、もう一つ映画で使われた話しはどうですか?」と、Wさん。
「いいえ、残念ながら。」と彼女は首を少し傾けて答えた。

「そうですね。ずいぶん昔の映画だからご存じないのが当然ですね。」
そういうWさんだって映画館で見たはずはない、とわたしは思った。
「酒と薔薇の日々」という映画も、主演のジャック=レモンも、私たちの世代の話しである。
主人公が、酒を飲めない愛妻に勧めたカクテルとしても、アレキサンダーは有名なのだが、
Wさんが、いかにも映画館で見たように熱心に話すのを聞いて、わたしは可笑しかった。

その話題のあとには、女性は隣の友人の女性と話したり、
Wさんも友人と話したりで時間は過ぎていったが、
ふっと間が開いたとき、女性がWさんの方に顔を向け、
「ほかにお勧めのカクテルがありますか、私に。」と問いかけた。
Wさんはしばし考えていたが、
「ブランデーベースで、ロス・ロイヤルというカクテルはいかがですか?」
「それって、何か謂われのあるカクテルですか?」女性は、わたしではなく、Wさんに問うた。

Wさんは幾分困ったふうにわたしを見て、
「マスター、このカクテルがコンベンションで賞をもらったのはいつだったっけ。」
「1968年、イギリスでのことです」わたしがWさんにではなく、その女性に向かって返事すると、
「じゃあ、それを作って下さいますか?」と、わたしに語りかけるようにオーダーした。

Wさんの友人2人も、女性の連れも、
息を潜めた感じで、2人の会話の行き着く先を伺っているようだ。
そのうち、Wさんが、
「一度、御一緒しませんか?」というと、
「ええ、いいですよ。」と言って女性は、マキちゃんから紙を受け取ると、
「これがわたしの携帯です」とあっさりと携帯の番号をWさんに渡した。

あまりにさっぱりとした風だったので、まるで仕事の取引関係の名刺交換のようだった。
その一瞬後、連れの女性が、
「止めなさいよ!知らない人に番号渡すの。」と抑えた声だが、強く叱るように言って、
Wさんの顔を睨むように見た。
「いいじゃない、もう知り合ったんだから。」、と女性は気にとめる様子もない。

Wさんは戸惑ったように、携帯の番号が記されている紙を見つめていたが、
「嫌なときは、はっきり断ってもらっていいですから、一応預かります。」
と、紙をポケットにしまった。
「もう帰ろう。」と機嫌を損ねた連れに促されて、女性はカクテルの残りを優雅に飲み干すと、
「マスター、ご馳走様。」、とわたしに微笑んで席を立った。

残されたWさんは、友人2人のニヤニヤ顔に冷やかされている。
「どうすんだ」という問いに、
「さあ、どうするかな。」Wさんは、やはり怪訝そうな、戸惑いから抜けていない。
自分が誘ったことも、その返事が肯定されたことも、まるで架空のことのような様子だ。

Wさんは、多分あの女性に連絡せずにはいられないだろう。
年齢の割に、優雅で、それでいて意志の強そうな彼女の眼は、
一度見つめたことのある男には忘れられないものだ。
わたしがもう少し若ければ、と思わせる女性だった。

Wさんとその女性がまた店に来たかですって。
土曜日の夜にお出でになると、もしかして、その後のことを自分の目で確かめることができるかも知れません。
とても確約はできませんが、
それでもよければ、一度名も知らぬ駅に来ませんか。

※この話及び登場人物も基本的にはフィクションです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする