NHK今年の大河ドラマに選ばれたのが司馬遼太郎の「功名が辻」です。
賢夫人の代名詞としての、山内一豊の妻は知ってはいましたが、この「功名が辻」と云う物語はまだ読んだことが無かったので読みながら、一豊の妻「千代」がどのようにして、50石の貧乏侍を土佐一国の太守にまで出世させて行くのか、そのコーチング振りを見ていきたいと思います。
永禄十年(1567)織田信長は尾張清洲城から岐阜に本拠を移した。
馬廻役五十石の山内伊右衛門一豊もその中にいた。
亡父の代から仕えている郎党の祖父江新右衛門、五藤吉兵衛と共に岐阜に新居を構える。
拝領の領地は百坪。
そこへ、台所、寝所だけの茅葺きの母屋と納屋を建てた。
それでも、貧弱ながら長屋門はある。この郎党二人を住まわせる為のものだ。
「五十石の小身には、少しぜいたく過ぎたか、おれの分際では大きすぎるなあ」
伊右衛門、気の小さいところがある。
「ご小心な」
祖父江新右衛門がしかりつけた。
「そのうち、ご出世あそばします。これしきのお屋敷、来年には狭くなるかもしれませぬぞ」
と、五藤吉兵衛。
五十石の身分で二人の家来を持つこと自体に無理があるのだが、二人の郎党は伊右衛門が十四歳で父を失ってからも、家来と云うよりも叔父さんのように伊右衛門を育ててきた。
当時の戦は、戦功は家来によってたてるものだった。
優秀な家来が多くいればそれだけ主の出世も早いと云うことになる。
伊右衛門は自分は米の飯を常食せずに、アワ、ヒエを食い、二人とその家族を養って居る。
二人もまた伊右衛門の俸禄に頼ろうとせず、合戦のないときには付近の大百姓に雇われて食い代をたすけていた。
そんな伊右衛門に縁談があった。
その相手が千代である。
父、若宮喜助は北近江の戦国大名浅井氏の家来で、ひとり娘千代が四歳のときに戦死した。
母、法秀尼は姉の嫁ぎ先を頼り、美濃三人衆の一軒に数えられるほどの大郷士不破家に身をよせた。
千代は、母娘食客の身ながらも、不破家は彼女を裕福な環境で育ててくれた。
「先方は、貧乏だぞ、千代に辛抱ができるかどうか」
縁談があったときに、義兄の不破市之丞は心配そうに言ったが法秀尼は、
「貧乏の方が末に楽しみがあるというものです」
と伊右衛門の人物だけを見込んで、この縁談を受けたのである。
不破市之丞は、不破家から嫁を出す以上、相当なことをしてやりたいと力説したが、法秀尼はそれに対しても、
「いいえ、先方様は、お父様の代には栄えたとはいえ、今は織田様でわずか五十石のご身分でございます。普段着ひととおりと、つかい古しの身のまわりの品々をもたせてやるつもりでおりまする」
と、頑固に断った。新夫の伊右衛門に引け目を感じさせまいと云う温かな心配りである。
「そうか、おぬしがそう言うならやむをえぬが、これだけは通してくれ」
と、不破市之丞は一案を出した。目録には含めず、千代の隠し金として当時としては途方もない大金、金十枚を持たせた。
法秀尼はそれを千代の持って行く鏡箱におさめさせ、
「この金子は夫の一大事のときに取り出しますように」
と、千代に言いふくめた。
この後秀吉が天正大判や銀貨を造りますが、室町幕府は貨幣を鋳造しなかったので、ここに出て来る金十枚がいくらくらいの価値なのかは解りません。おそらくは私鋳の金貨だと思われますが、一般の流通貨幣は宋銭や明銭であり、金貨はたいそう貴重なものだったと思われます。
「おかあさま、一豊(伊右衛門)様とはどのようなかたでございます」
「またですか」
母親の法秀尼は苦笑した。
このあいだから何度、千代は同じ質問を、母親にしてきたかわからない。
「いいひとですよ」
それだけを法秀尼は答える。この利口な婦人は、余計な批評がましいことを言って、娘に無用の先入観を入れることをさけているのである。
千代は明るい娘であった。そして利口さを無邪気で偽装していた。
利口者が利口を顔に出すほど嫌味なものはないことを、この娘は小娘のときから知っている。
だから、だれからも愛された。
つづく
司馬遼太郎の小説の書き出し部分を私なりに纏めると、こんな風になりました。
山内伊右衛門一豊を育てた家来の二人には主を育てる優しさがあります。
千代の賢さは母親の法秀尼の育て方が影響しているように感じられました。
どちらにも良いコーチが付いていたようです。
コーチは明るい未来を示し、クライアントにそのイメージを描かせます。
ブログランキングに参加中、気に入ったらクリックお願いします。
賢夫人の代名詞としての、山内一豊の妻は知ってはいましたが、この「功名が辻」と云う物語はまだ読んだことが無かったので読みながら、一豊の妻「千代」がどのようにして、50石の貧乏侍を土佐一国の太守にまで出世させて行くのか、そのコーチング振りを見ていきたいと思います。
永禄十年(1567)織田信長は尾張清洲城から岐阜に本拠を移した。
馬廻役五十石の山内伊右衛門一豊もその中にいた。
亡父の代から仕えている郎党の祖父江新右衛門、五藤吉兵衛と共に岐阜に新居を構える。
拝領の領地は百坪。
そこへ、台所、寝所だけの茅葺きの母屋と納屋を建てた。
それでも、貧弱ながら長屋門はある。この郎党二人を住まわせる為のものだ。
「五十石の小身には、少しぜいたく過ぎたか、おれの分際では大きすぎるなあ」
伊右衛門、気の小さいところがある。
「ご小心な」
祖父江新右衛門がしかりつけた。
「そのうち、ご出世あそばします。これしきのお屋敷、来年には狭くなるかもしれませぬぞ」
と、五藤吉兵衛。
五十石の身分で二人の家来を持つこと自体に無理があるのだが、二人の郎党は伊右衛門が十四歳で父を失ってからも、家来と云うよりも叔父さんのように伊右衛門を育ててきた。
当時の戦は、戦功は家来によってたてるものだった。
優秀な家来が多くいればそれだけ主の出世も早いと云うことになる。
伊右衛門は自分は米の飯を常食せずに、アワ、ヒエを食い、二人とその家族を養って居る。
二人もまた伊右衛門の俸禄に頼ろうとせず、合戦のないときには付近の大百姓に雇われて食い代をたすけていた。
そんな伊右衛門に縁談があった。
その相手が千代である。
父、若宮喜助は北近江の戦国大名浅井氏の家来で、ひとり娘千代が四歳のときに戦死した。
母、法秀尼は姉の嫁ぎ先を頼り、美濃三人衆の一軒に数えられるほどの大郷士不破家に身をよせた。
千代は、母娘食客の身ながらも、不破家は彼女を裕福な環境で育ててくれた。
「先方は、貧乏だぞ、千代に辛抱ができるかどうか」
縁談があったときに、義兄の不破市之丞は心配そうに言ったが法秀尼は、
「貧乏の方が末に楽しみがあるというものです」
と伊右衛門の人物だけを見込んで、この縁談を受けたのである。
不破市之丞は、不破家から嫁を出す以上、相当なことをしてやりたいと力説したが、法秀尼はそれに対しても、
「いいえ、先方様は、お父様の代には栄えたとはいえ、今は織田様でわずか五十石のご身分でございます。普段着ひととおりと、つかい古しの身のまわりの品々をもたせてやるつもりでおりまする」
と、頑固に断った。新夫の伊右衛門に引け目を感じさせまいと云う温かな心配りである。
「そうか、おぬしがそう言うならやむをえぬが、これだけは通してくれ」
と、不破市之丞は一案を出した。目録には含めず、千代の隠し金として当時としては途方もない大金、金十枚を持たせた。
法秀尼はそれを千代の持って行く鏡箱におさめさせ、
「この金子は夫の一大事のときに取り出しますように」
と、千代に言いふくめた。
この後秀吉が天正大判や銀貨を造りますが、室町幕府は貨幣を鋳造しなかったので、ここに出て来る金十枚がいくらくらいの価値なのかは解りません。おそらくは私鋳の金貨だと思われますが、一般の流通貨幣は宋銭や明銭であり、金貨はたいそう貴重なものだったと思われます。
「おかあさま、一豊(伊右衛門)様とはどのようなかたでございます」
「またですか」
母親の法秀尼は苦笑した。
このあいだから何度、千代は同じ質問を、母親にしてきたかわからない。
「いいひとですよ」
それだけを法秀尼は答える。この利口な婦人は、余計な批評がましいことを言って、娘に無用の先入観を入れることをさけているのである。
千代は明るい娘であった。そして利口さを無邪気で偽装していた。
利口者が利口を顔に出すほど嫌味なものはないことを、この娘は小娘のときから知っている。
だから、だれからも愛された。
つづく
司馬遼太郎の小説の書き出し部分を私なりに纏めると、こんな風になりました。
山内伊右衛門一豊を育てた家来の二人には主を育てる優しさがあります。
千代の賢さは母親の法秀尼の育て方が影響しているように感じられました。
どちらにも良いコーチが付いていたようです。
コーチは明るい未来を示し、クライアントにそのイメージを描かせます。
ブログランキングに参加中、気に入ったらクリックお願いします。