ところで、シーボルトや勝海舟が長崎で宿にしていたのが聖林山本蓮寺の塔頭大乗院ですが、その寺は、長崎三大寺の一つです。
西坂の丘の向かって右手の坂を駅に並行して下りて行くとあります。
私もよく前を通りましたが、ここはもともとハンセン病院と小さな教会がありました。
現在サン・ラザロ病院サン・ジョアン・バプチスタ教会跡の石碑が立っています。
1591年ポルトガル船の司令官がここに病院を建て、そこに26聖人の一人バプチスタ神父が滞在してサン・ジョアン・バプチスタ教会が建てられました。
ところで、神父と言うのは明治になって方使われたそうです。
現在は、南蛮の井戸が残っていますが、この周りがサン・ジョアンの町と言われていたところです。
1569年に建立されたトードス・オス・サントス教会(最初の教会で現・春徳寺)と1594年に建立された山のサンタ・マリア教会(現・長崎歴史文化博物館)が長崎の三大教会と呼ばれたそうです。幕末に上野彦馬が撮った聖林山本蓮寺の写真が残っています。
明日から長崎です。
いつも市内に入ると、看板の多い町だなーと感じます。
観光地と言う感じですかね。
しっとりと落ち着いたと言うイメージではなく、わさわさした感じです。
市内を歩いていると、良く地方教会の方々と顔を合わせます。西坂の丘あたりでは、挨拶のし通しです。
今回は、塀振坂(へいふりさか)で坂本龍馬と勝海舟の資料を探しに行く予定です。
勝海舟を殺そうとして押し入り、そのまま人格に惚れて弟子になった龍馬です。
勝は、脱藩藩士の罪人だった坂本龍馬の命乞いのためにも活躍し、多くの人々の建て上げや助けのためにのために尽力を惜しみませんでしたが、、自分の息子たちにはついていなかったようです。
長男の小鹿は、40歳くらいで急死、跡取りのために養子になった徳川慶喜の十男・精(くわし)は勝の孫とうまくいかなくて、彼女の死後、愛人と心中してしまいます。
そして、三男の梅太郎(愛人の子)は、計画性がなく行き当たりばったりで、牧師になると言うビlジョンも中途半端で終わってしまいました。だから、奥さんのクララは6人の子供たちを連れて、勝さんの死後アメリカに帰ってしまいました。
長崎は、そんな勝海舟の活躍した地でもあるのです。
長崎歴史文化博物館はできたばかりの時に行きましたが、大勢で行ったのであまり記憶に残っていません。
今回は、一人でじゅつくり見てくるつもりです。
現在は、「チャイナドレスと上海モダン展」が開催されているので、楽しみです。