1日夜、実家へ里帰り。途中、天気が良かったのでずっと狙っていた写真が、「今日こそ撮れる!」と夕暮れ時に田川を通過できるよう時間調整して車で博多を出発。予想通り、香春岳の麓にある日本セメント香春工場を通過する頃に夕日が工場に赤々とあたり絶好のシャッターチャンス。前日の雪を経て空気が澄んでいて自分的には満足の写真が撮れた。
2日朝、母と実家周辺を散歩、キビタキやアオサギ、そしてカワセミに出会う。小学生時代、夏は毎日通ったクヌギ林のあぜ道まで舗装道路となり、ミヤマクワガタを何度もゲットした茶畑は荒れ放題になっていて隔世の感である。千束小学校横にある千束神社へお詣り。ここは子供の頃の遊び場だったが、鬱蒼とした荒れ放題だった境内が、今は手入れをする方がいてキレイになっていて驚く。
千束小学校の敷地と隣接する千束神社は、元々地主だった益田本家の土地。ここは中学校の校歌にも唄われている小笠原新田藩の居城・旭城の城跡で、諸々のお城の本には「日本で最後に完成した城」として城マニアには密かに知られている。長州軍に小倉城を追われた小笠原家が、田川・香春を経て上毛郡千束村のこの地に居城を築城したのは明治2年。そのわずか1年半後には廃藩置県となり、居城は取り壊された。千束県から小倉県に合併され、のち福岡県となる。
取り壊された居城は、益田の本家と親類で千束神社を管理する佐々木家の母屋の二つとして再生。平成3年9月の台風19号で門や離れ屋敷、使用人部屋などは崩壊し取り壊され。母屋は土間を埋めて往時の面影は薄れているが、天井の梁はお城で使用していたもので、今も健在である。欄間など受け継いでいた調度品は、祖母が風呂の薪に使ったそうだ(笑)。旭城と小笠原新田藩を研究している方も、ここまでは訪ねてきたことは無いようである。
千束小学校から海側の集落は、武家屋敷として形成されたもので、つい最近まで門構えや石垣塀が遺っていたが、次第に武家屋敷らしい家は減っている。小学1・2年の担任だった下村先生宅は小笠原の上級武士の家系。ご主人は満州国外交部次長まで務めた故下村信貞氏。定年前の最後の生徒が私たちだったことから、卒業後も教え子はよく先生宅へ遊びに行った。
下村信貞は、名曲「丘を越えて」の作詞で知られる島田芳文と同年である。前にも書いたが、島田は母校である築上中部高校の校歌の作詞者であり、実妹さんは中部高校の前身・築上高等女学校で私の祖母のひとつ下であった。今も飯塚市でご健在(97歳)で、昨年秋の旭桜会福岡支部総会に初参加された。
下村と島田に加えて、千束・黒土の同学年の秀才・水野薫の3人は当時の名門中津中学へ毎日徒歩で通い、その時の楽しい思い出が「丘を越えて」の歌詞に活かされている。水野家は、旭城の建設を担った大工・水野棟三郎の家系であり、戦前、日本に誇った「模範村」黒土村の基礎を築いている。また、水野薫は昭和30年4月に誕生した豊前市の2代目市長である。
私がなぜここまで調べているかと言えば、ライフワークで研究している吉田初三郎が豊前市の作品の依頼を受け、満州国の鳥瞰図まで制作していることから推測してたどり着いたもの。水野市長時代に「豊前市鳥瞰図」は描かれており、初三郎が「耶馬渓鉄道」の鳥瞰図を計4度描いている際に、どこかで接点があったのではないかと考えた次第だ。村上巧児翁と初三郎の関係とともに絶好の小説の題材である。確証となる資料発掘は今年の課題のひとつ。
今日の写真は、香春町の日本セメント香春工場。筑豊のシンボル・香春岳が入る構図での近景撮影は困難で断念。もう5度ほどこの地で撮影を試みてきたが、いつも天候不順で良い撮影ができなかった。一昨年、この場所を通過する際に虹が香春岳にかかったことがあり撮影したが、写真では虹ははっきり見えず。
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2日朝、母と実家周辺を散歩、キビタキやアオサギ、そしてカワセミに出会う。小学生時代、夏は毎日通ったクヌギ林のあぜ道まで舗装道路となり、ミヤマクワガタを何度もゲットした茶畑は荒れ放題になっていて隔世の感である。千束小学校横にある千束神社へお詣り。ここは子供の頃の遊び場だったが、鬱蒼とした荒れ放題だった境内が、今は手入れをする方がいてキレイになっていて驚く。
千束小学校の敷地と隣接する千束神社は、元々地主だった益田本家の土地。ここは中学校の校歌にも唄われている小笠原新田藩の居城・旭城の城跡で、諸々のお城の本には「日本で最後に完成した城」として城マニアには密かに知られている。長州軍に小倉城を追われた小笠原家が、田川・香春を経て上毛郡千束村のこの地に居城を築城したのは明治2年。そのわずか1年半後には廃藩置県となり、居城は取り壊された。千束県から小倉県に合併され、のち福岡県となる。
取り壊された居城は、益田の本家と親類で千束神社を管理する佐々木家の母屋の二つとして再生。平成3年9月の台風19号で門や離れ屋敷、使用人部屋などは崩壊し取り壊され。母屋は土間を埋めて往時の面影は薄れているが、天井の梁はお城で使用していたもので、今も健在である。欄間など受け継いでいた調度品は、祖母が風呂の薪に使ったそうだ(笑)。旭城と小笠原新田藩を研究している方も、ここまでは訪ねてきたことは無いようである。
千束小学校から海側の集落は、武家屋敷として形成されたもので、つい最近まで門構えや石垣塀が遺っていたが、次第に武家屋敷らしい家は減っている。小学1・2年の担任だった下村先生宅は小笠原の上級武士の家系。ご主人は満州国外交部次長まで務めた故下村信貞氏。定年前の最後の生徒が私たちだったことから、卒業後も教え子はよく先生宅へ遊びに行った。
下村信貞は、名曲「丘を越えて」の作詞で知られる島田芳文と同年である。前にも書いたが、島田は母校である築上中部高校の校歌の作詞者であり、実妹さんは中部高校の前身・築上高等女学校で私の祖母のひとつ下であった。今も飯塚市でご健在(97歳)で、昨年秋の旭桜会福岡支部総会に初参加された。
下村と島田に加えて、千束・黒土の同学年の秀才・水野薫の3人は当時の名門中津中学へ毎日徒歩で通い、その時の楽しい思い出が「丘を越えて」の歌詞に活かされている。水野家は、旭城の建設を担った大工・水野棟三郎の家系であり、戦前、日本に誇った「模範村」黒土村の基礎を築いている。また、水野薫は昭和30年4月に誕生した豊前市の2代目市長である。
私がなぜここまで調べているかと言えば、ライフワークで研究している吉田初三郎が豊前市の作品の依頼を受け、満州国の鳥瞰図まで制作していることから推測してたどり着いたもの。水野市長時代に「豊前市鳥瞰図」は描かれており、初三郎が「耶馬渓鉄道」の鳥瞰図を計4度描いている際に、どこかで接点があったのではないかと考えた次第だ。村上巧児翁と初三郎の関係とともに絶好の小説の題材である。確証となる資料発掘は今年の課題のひとつ。
今日の写真は、香春町の日本セメント香春工場。筑豊のシンボル・香春岳が入る構図での近景撮影は困難で断念。もう5度ほどこの地で撮影を試みてきたが、いつも天候不順で良い撮影ができなかった。一昨年、この場所を通過する際に虹が香春岳にかかったことがあり撮影したが、写真では虹ははっきり見えず。
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この写真私もとても気に入りました。
セメント工場がこんなに絵になるなんて感動。
私は香春岳、牛斬山、障子ガ岳など時々歩くのでなおさらこの写真が好きです。太宰官道も歩いてみようと思ったのですが一人では怖い?ので止めました。
1月2日は参加出来なかった・・川崎(旧姓)
懐かしいお名前ですね、次回の同窓会でお会いできたら嬉しいです。けど、山歩き好きなんですね、昔から??中高時の印象は自転車通学(当たり前って!)。私は中学は歩きでした。
「工場萌え」写真って、なんかブームらしいですよ。
mixi版には、文章も写真も割り増し掲載してます。
お正月は千束に帰省されたのですね。今年もどうぞよろしく。たくさんうれしいことがありますように。