5月17日、夕刻に湯の児温泉・平野屋を発って、宿泊する人吉温泉・翠
嵐楼へ向かった。初三郎ゆかりの宿を一軒ずつ泊まりたいと考えていて、
原画の所在が判るのが早かった同旅館に今回は泊まった。今回は母を連れ
てのゆかりの地めぐりで、一週間遅れの母の日プレゼントを兼ねていた。
旅館に着いたのは午後6時半。若旦那(専務)らが手厚く出迎えてくれ
て恐縮しまくり(笑)。宿泊はさすがに一般室ながら、3F奥の良い部屋
で窓からは球磨川の清流が一望できた。初三郎は昭和3年と22年に2度
この宿に長期滞在しているが、その際には3Fは無かったので、その頃以
上の眺めかもしれない。
創業当時からの地下浴場にまず向かい、湯を堪能する。宮様をはじめ、
あまたの文人、著名人が愛した独特の柔らかい湯は運転の疲れを癒すには
最良であった。平日であったが、部屋はほぼ満室で良い日は一年前から予
約しないと泊まれないようだ。
菜園で採れた野菜や地元産の食材で彩られた食事が始まり、私も母も大
満足。そこに女将がわざわざ挨拶に来てくれた。聞くと遠方で会合があっ
たが、我々が泊まるというので早い列車で急ぎ戻ってきたとのこと。私に
早く見せたいものがあったと言って用意してくれたのは、今も使っている
という鮎が描かれた御膳敷である。
これは昭和3年に初三郎が宿泊し鳥瞰図を描いた折に描いた作品との事。
和紙に印刷したもので落款部分は削除されていたが、先日私が前田稀さん
と一緒に訪れた折に渡した、初三郎の日記に記されていた内容から、この
絵が初三郎のものと思い出されたとのこと。原画もどこかにあるとのこと
で、探しているとの事であった。
宿泊した2日後、女将から連絡あり、鮎の原画はなんと表装屋さんにあ
ったとのこと。表装に出していたが、日々の忙しさに忘れていたのである。
実は日本画などは今回のように表装に出して、出した方が亡くなったり、
忘れてしまって表装屋・表具屋さんにそのまま残ることも少なくない。初
三郎のように半ば忘れ去られようとしている画家であれば、尚更である。
何より、女将が渡した日記を隅々まで一所懸命に読んでくれているのが
嬉しい。日記の2ページ後には、昭和22年に滞在した折に旅館からの眺め
や周囲をスケッチして廻ったことが記されており、この時の作品もまた残
るのでは?と期待している。翠嵐楼については、この後昭和23~4年の
絵葉書が2種確認できているが、いずれも初三郎の昭和3年の作品を一部
手直しした内容である。
翠嵐楼で人吉温泉について書いた初三郎の文章は「日本観光クラブ」同
年5月号のために書いたものであると、初三郎は日記に書いている。同誌
の4月号は研究家の石黒氏にコピーをもらっているが、5月号は未見であ
る。4月号文章は、以前記した「佐敷居よいか、住みよいか」である。
翌朝、球磨川のせせらぎと小鳥の囀りで目が覚めた。部屋の眼下には垂
れ桜などがあり、その木々に沢山の小鳥が留まって鳴いている。川向こう
ではキジの声も聞こえる。キジと言えば、今も翠嵐楼にはキジ・孔雀など
がたくさん飼われていて人々の目を引く。初三郎が描いた昭和3年の翠嵐
楼の鳥瞰図にも、ちゃんと敷地内に孔雀が描かれていて嬉しくなった。印
刷物だと小さくて目立たないが、絹本原画で観るととても目立つ。
人吉といえば球磨焼酎が思い浮かぶが、清流なだけに球磨川流域には清
酒の銘酒も多い。翠嵐楼オリジナルの日本酒は美味であった。また人吉は
お茶の産地でもあり、前回土産にいただいた新茶は我が家でお気に入りと
なっている。
都城へと発つ前に、女将がさらに嬉しいものを私にくれた。近代人吉温
泉を開拓した翠嵐楼の創業者・川野廉氏が生前に書き残した、遺稿や保存
資料などを一冊にまとめたもので、縁のある近しい方にしか配られていな
い貴重本であった。頁をめくると、初三郎の旅館案内をはじめ諸資料が写
真入りで紹介され、直筆の遺稿などで構成されている。
まだ全文は読んでいないが、川野家先祖の出身は遡れば四国伊豫・河野
氏一門とのことだが、廉氏が記している祖先系統図によれば初代は豊前国
中津で出仕したとあり、私の地元でもあるのでこれにも縁を感じた。初代
や二代目は初三郎の絵について「とても貴重なものだから」と常々言って
いたとのことで、この本は私にとっても大切な書となりそうだ。
今日の写真は翠嵐楼客室からの眺め、球磨川の清流。
嵐楼へ向かった。初三郎ゆかりの宿を一軒ずつ泊まりたいと考えていて、
原画の所在が判るのが早かった同旅館に今回は泊まった。今回は母を連れ
てのゆかりの地めぐりで、一週間遅れの母の日プレゼントを兼ねていた。
旅館に着いたのは午後6時半。若旦那(専務)らが手厚く出迎えてくれ
て恐縮しまくり(笑)。宿泊はさすがに一般室ながら、3F奥の良い部屋
で窓からは球磨川の清流が一望できた。初三郎は昭和3年と22年に2度
この宿に長期滞在しているが、その際には3Fは無かったので、その頃以
上の眺めかもしれない。
創業当時からの地下浴場にまず向かい、湯を堪能する。宮様をはじめ、
あまたの文人、著名人が愛した独特の柔らかい湯は運転の疲れを癒すには
最良であった。平日であったが、部屋はほぼ満室で良い日は一年前から予
約しないと泊まれないようだ。
菜園で採れた野菜や地元産の食材で彩られた食事が始まり、私も母も大
満足。そこに女将がわざわざ挨拶に来てくれた。聞くと遠方で会合があっ
たが、我々が泊まるというので早い列車で急ぎ戻ってきたとのこと。私に
早く見せたいものがあったと言って用意してくれたのは、今も使っている
という鮎が描かれた御膳敷である。
これは昭和3年に初三郎が宿泊し鳥瞰図を描いた折に描いた作品との事。
和紙に印刷したもので落款部分は削除されていたが、先日私が前田稀さん
と一緒に訪れた折に渡した、初三郎の日記に記されていた内容から、この
絵が初三郎のものと思い出されたとのこと。原画もどこかにあるとのこと
で、探しているとの事であった。
宿泊した2日後、女将から連絡あり、鮎の原画はなんと表装屋さんにあ
ったとのこと。表装に出していたが、日々の忙しさに忘れていたのである。
実は日本画などは今回のように表装に出して、出した方が亡くなったり、
忘れてしまって表装屋・表具屋さんにそのまま残ることも少なくない。初
三郎のように半ば忘れ去られようとしている画家であれば、尚更である。
何より、女将が渡した日記を隅々まで一所懸命に読んでくれているのが
嬉しい。日記の2ページ後には、昭和22年に滞在した折に旅館からの眺め
や周囲をスケッチして廻ったことが記されており、この時の作品もまた残
るのでは?と期待している。翠嵐楼については、この後昭和23~4年の
絵葉書が2種確認できているが、いずれも初三郎の昭和3年の作品を一部
手直しした内容である。
翠嵐楼で人吉温泉について書いた初三郎の文章は「日本観光クラブ」同
年5月号のために書いたものであると、初三郎は日記に書いている。同誌
の4月号は研究家の石黒氏にコピーをもらっているが、5月号は未見であ
る。4月号文章は、以前記した「佐敷居よいか、住みよいか」である。
翌朝、球磨川のせせらぎと小鳥の囀りで目が覚めた。部屋の眼下には垂
れ桜などがあり、その木々に沢山の小鳥が留まって鳴いている。川向こう
ではキジの声も聞こえる。キジと言えば、今も翠嵐楼にはキジ・孔雀など
がたくさん飼われていて人々の目を引く。初三郎が描いた昭和3年の翠嵐
楼の鳥瞰図にも、ちゃんと敷地内に孔雀が描かれていて嬉しくなった。印
刷物だと小さくて目立たないが、絹本原画で観るととても目立つ。
人吉といえば球磨焼酎が思い浮かぶが、清流なだけに球磨川流域には清
酒の銘酒も多い。翠嵐楼オリジナルの日本酒は美味であった。また人吉は
お茶の産地でもあり、前回土産にいただいた新茶は我が家でお気に入りと
なっている。
都城へと発つ前に、女将がさらに嬉しいものを私にくれた。近代人吉温
泉を開拓した翠嵐楼の創業者・川野廉氏が生前に書き残した、遺稿や保存
資料などを一冊にまとめたもので、縁のある近しい方にしか配られていな
い貴重本であった。頁をめくると、初三郎の旅館案内をはじめ諸資料が写
真入りで紹介され、直筆の遺稿などで構成されている。
まだ全文は読んでいないが、川野家先祖の出身は遡れば四国伊豫・河野
氏一門とのことだが、廉氏が記している祖先系統図によれば初代は豊前国
中津で出仕したとあり、私の地元でもあるのでこれにも縁を感じた。初代
や二代目は初三郎の絵について「とても貴重なものだから」と常々言って
いたとのことで、この本は私にとっても大切な書となりそうだ。
今日の写真は翠嵐楼客室からの眺め、球磨川の清流。