明日はまた京都行きである。そのため、本日中に片づける仕事に、
日中は追われた。その合間に、新聞記事で見た山口県周南市の「マツ
ノ書店」へ電話をした。同店出版部では、吉田初三郎が昭和12年に
描いた「徳山市鳥瞰図」を印刷物から複製し、6月2日に店頭で千部
限定で無料配布したとのこと。それ以後は一部千円にて頒布中で切手
千円分を郵送すれば通販も可とのこと。
(マツノ書店 TEL : 0834-21-2195)
鳥瞰図を複製した理由は「4年前の合併で周南市に名前が変わった
が知名度はいまひとつ。粋な先人の発想を見習って市をPRしたい。」
とのことだ。担当者に聞いたところ、周南市へ別途千部寄贈しPRに
活用してもらうとのこと。周南市の中心は、旧徳山市で美術館には、
昭和22年の「徳山港」絹本原画があり、昭和天皇の天覧作である。
古地図・初三郎研究会といえば、この2007年5月27日の総会で
日本古地図学会が解散決議となった。発端は昨年5月に発行された、
『鳥瞰図絵師 吉田初三郎』という本で、一会員が学会の審査を経ず
に無断で学会の名を語り自費出版したことのようだ。
http://www.antiquemap.jp/
この本自体には新発見の事実やそれまで知られていなかったエピソ
ード等が盛り込まれ、初めて読む方には初三郎に興味を抱くような内
容ではあるが、実際には著者の憶測や事実誤認、そして挿入写真等の
無断掲載が多々あり、また本来あるべき編集校正作業を経ていないた
めの誤字脱字が目立つことから、研究者やご遺族からは発行当初から
多くのクレームが寄せられていたものだ。
私自身は会員でもなく、また初三郎研究会にも入っていないため、
対岸の火事を見るような気持ちであるが、この件をきっかけにして会
の解散にまで発展したのは残念である。また、研究者としては勇み足
にならないよう教訓とすべき事件であった。
吉田初三郎の著作権について、実はとても複雑な問題をはらんでい
る。通常であれば、本人が亡くなった昭和30年から50年後の、2
005年末で著作権は消滅しているはずで、一般的にもそう捉えられ
ていて、著作権消滅を待っていたかのように復刻・複製の話が絶えな
い。
しかし、実際には初三郎鳥瞰図は工房形式で作品が作り出されてい
たもので、特に戦後の作品の多くは二代目となる吉田朝太郎が実際の
作画彩色を行っている。確かに構図や下図等は初三郎が手がけるので
あるが、実際に絹本への彩色は大正期より弟子との共同作業で進めて
いたことも知られ、年間100件を超える作品を量産できたのである。
初三郎没後の昭和30年以降も昭和40年頃まで初三郎名義の作品
が出回るが、これは朝太郎の作品である。しかも、昭和23年に大病
を煩った後の初三郎は目も弱り、また通風らしき症状も日記などに記
され痛みの中で作画に携われる状態ではなかったことも事実である。
表紙絵や絵葉書の肉筆画、屏風絵や色紙など短時間でも作画可能な
ものは最晩年まで描いていたが、こと鳥瞰図となるとそうはいかなか
ったことは容易に想像できる。これら明らかに朝太郎氏が描いたもの
に対しての著作権がどうなるか、が難しいのである。
初三郎の画業を継いだ朝太郎氏は今を遡ること僅か7年前、200
0年2月に亡くなった。戦後の初三郎作品の落款がひょろひょろと細
いのは、筆圧が無くなったからであると、研究者の間では考えられて
きたが、それも朝太郎氏の奥さま(ご健在)の字であることが判明。
晩年の初三郎は朝太郎夫妻によってまさに支えられてきた訳であり、
一族の生活全てが朝太郎氏の筆一本に掛かっていたことになる。
こういう場合、本当の著作権は誰にあるのだろうか?初三郎を生涯
にわたり支え続けた朝太郎氏への評価とともに、各所へ散逸していく
初三郎資料の全体像の把握・情報管理の問題は、これから避けて通れ
ない大きな課題であると考えている。夢二など同世代の図案家や画家
の多くがそうであるように、財団化するなど受け皿となる機関が無け
れば、今以上の初三郎の評価は得られないのではないか。
今日の写真は、初三郎作「鴨川をどり写真帳」表紙。
京都はすでに納涼床の季節。京都府京都文化博物館では「鳥瞰図絵師・
吉田初三郎の名所案内図」展が2F歴史展示室で開催中である(~17日)
日中は追われた。その合間に、新聞記事で見た山口県周南市の「マツ
ノ書店」へ電話をした。同店出版部では、吉田初三郎が昭和12年に
描いた「徳山市鳥瞰図」を印刷物から複製し、6月2日に店頭で千部
限定で無料配布したとのこと。それ以後は一部千円にて頒布中で切手
千円分を郵送すれば通販も可とのこと。
(マツノ書店 TEL : 0834-21-2195)
鳥瞰図を複製した理由は「4年前の合併で周南市に名前が変わった
が知名度はいまひとつ。粋な先人の発想を見習って市をPRしたい。」
とのことだ。担当者に聞いたところ、周南市へ別途千部寄贈しPRに
活用してもらうとのこと。周南市の中心は、旧徳山市で美術館には、
昭和22年の「徳山港」絹本原画があり、昭和天皇の天覧作である。
古地図・初三郎研究会といえば、この2007年5月27日の総会で
日本古地図学会が解散決議となった。発端は昨年5月に発行された、
『鳥瞰図絵師 吉田初三郎』という本で、一会員が学会の審査を経ず
に無断で学会の名を語り自費出版したことのようだ。
http://www.antiquemap.jp/
この本自体には新発見の事実やそれまで知られていなかったエピソ
ード等が盛り込まれ、初めて読む方には初三郎に興味を抱くような内
容ではあるが、実際には著者の憶測や事実誤認、そして挿入写真等の
無断掲載が多々あり、また本来あるべき編集校正作業を経ていないた
めの誤字脱字が目立つことから、研究者やご遺族からは発行当初から
多くのクレームが寄せられていたものだ。
私自身は会員でもなく、また初三郎研究会にも入っていないため、
対岸の火事を見るような気持ちであるが、この件をきっかけにして会
の解散にまで発展したのは残念である。また、研究者としては勇み足
にならないよう教訓とすべき事件であった。
吉田初三郎の著作権について、実はとても複雑な問題をはらんでい
る。通常であれば、本人が亡くなった昭和30年から50年後の、2
005年末で著作権は消滅しているはずで、一般的にもそう捉えられ
ていて、著作権消滅を待っていたかのように復刻・複製の話が絶えな
い。
しかし、実際には初三郎鳥瞰図は工房形式で作品が作り出されてい
たもので、特に戦後の作品の多くは二代目となる吉田朝太郎が実際の
作画彩色を行っている。確かに構図や下図等は初三郎が手がけるので
あるが、実際に絹本への彩色は大正期より弟子との共同作業で進めて
いたことも知られ、年間100件を超える作品を量産できたのである。
初三郎没後の昭和30年以降も昭和40年頃まで初三郎名義の作品
が出回るが、これは朝太郎の作品である。しかも、昭和23年に大病
を煩った後の初三郎は目も弱り、また通風らしき症状も日記などに記
され痛みの中で作画に携われる状態ではなかったことも事実である。
表紙絵や絵葉書の肉筆画、屏風絵や色紙など短時間でも作画可能な
ものは最晩年まで描いていたが、こと鳥瞰図となるとそうはいかなか
ったことは容易に想像できる。これら明らかに朝太郎氏が描いたもの
に対しての著作権がどうなるか、が難しいのである。
初三郎の画業を継いだ朝太郎氏は今を遡ること僅か7年前、200
0年2月に亡くなった。戦後の初三郎作品の落款がひょろひょろと細
いのは、筆圧が無くなったからであると、研究者の間では考えられて
きたが、それも朝太郎氏の奥さま(ご健在)の字であることが判明。
晩年の初三郎は朝太郎夫妻によってまさに支えられてきた訳であり、
一族の生活全てが朝太郎氏の筆一本に掛かっていたことになる。
こういう場合、本当の著作権は誰にあるのだろうか?初三郎を生涯
にわたり支え続けた朝太郎氏への評価とともに、各所へ散逸していく
初三郎資料の全体像の把握・情報管理の問題は、これから避けて通れ
ない大きな課題であると考えている。夢二など同世代の図案家や画家
の多くがそうであるように、財団化するなど受け皿となる機関が無け
れば、今以上の初三郎の評価は得られないのではないか。
今日の写真は、初三郎作「鴨川をどり写真帳」表紙。
京都はすでに納涼床の季節。京都府京都文化博物館では「鳥瞰図絵師・
吉田初三郎の名所案内図」展が2F歴史展示室で開催中である(~17日)
北海道は沢山書いたと先日申してました
書体で違いが解ります