記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

登録有形文化財になる旧「大學湯」の前身施設は辰野金吾設計「抱洋閣」⁉︎

2024年11月23日 22時00分46秒 | 福博まちの記憶

福岡市東区の旧「大學湯」の建物が国登録有形文化財答申という嬉しいニュースで、現在の「大學湯」と関係の深い話をひとつ。(2枚目写真は2009年営業当時の外観=著者撮影)

1932(昭和7)年開業と伝えられている大學湯、これはおそらく現在地で石井フミさんご夫婦が開業した時期のこと。実は同じ年に閉館した同名の「大學湯」という前身施設があるのである。

こちらは筥崎宮海岸「大學湯抱洋閣」開業記念の絵葉書。設計は東京駅や福岡市赤煉瓦文化館などを設計した辰野金吾。施主は奥村利助、施工は西中洲の公会堂貴賓館などを建設した岩崎組(現・岩崎建設)。1907(明治40)年10月の着工で、スタンプの日付を見ると1909(明治42)年8月11日に開業している。

この抱洋閣、実は施工した岩崎建設社史や様々な過去発刊書籍の記述をチェックすると、一年遅れの1910(明治43)年8月11日に完成したことになっている。ちょうど一年の誤差があるのだ。

しかし、1910(明治43)年3月11日に発行された「福岡市案内記」には上掲の「抱洋閣」宣伝が写真入りで掲載されている。この冊子は天神地区で開催された「第13回九州沖縄八県連合共進会」開幕に合わせて刊行されているので、「大學湯抱洋閣」の開業は絵葉書のスタンプの通り1909(明治42)年8月11日が正しいと結論付けるのが普通である。抱洋閣を紹介した書籍に掲載されている写真は、全く同じモノだという確認もできる。

そもそも抱洋閣は、共進会来賓の迎賓宿泊施設として計画されたものなので、共進会に間に合ってないなら大問題だ。だから辰野金吾設計なのだ。過去の記述が正しいのなら、開幕半年前になって工事が間に合わないと話題の2025年「大阪万博」のような進捗だったのだろうか?

共進会期間は2ヶ月間で5月には閉幕しているので、8月では全く間に合ってない。可能性としてあるのは、部分開業で始まり全体が完成したのが共進会後という場合。岩崎建設社史の記述が正確なら、このケースもあるにはある。絵葉書とは別に、私は抱洋閣庭園などを写した大判写真も所有しているが、こちらの日付は裏面に筆書きで明治43年とある。

潮湯「抱洋閣」の絵葉書は施設が刊行したもの以外にも、当時の福岡市観光絵葉書セットには必ず含まれている。施主の奥村利助は箱崎浜の塩田経営も行っており、潮湯に「大學湯」と命名し、庭園宿泊施設が「抱洋閣」と呼ばれていたようだ。

抱洋閣は付帯施設として箱崎水族館も一体経営、株主には奥村利助のほか「渡辺通り」渡辺與八郎ら当時の地元財界人が名を連ねている。與八郎が設立した博多電気軌道の計画図をみると、水族館&抱洋閣まで路線を延ばす予定だったことも分かる。実際は與八郎の急逝により実現はしていないが…。

渡辺與八郎のお孫さんで2015年に亡くなられた與三郎氏からは「子どもの頃、抱洋閣に宿泊したことがある」という話を伺い、株式出資証明なども拝見したので(コピー所有)間違いない。

同時期に完成した辰野金吾設計の赤煉瓦建築「日本生命九州支社(現・福岡市赤煉瓦文化館)」が全て輸入資材を使い清水建設の施工で完成したのに対し、抱洋閣は地元・岩崎建設の施工で、煉瓦も地元業者(深川)で製造。博多電気軌道の設立開業と同様に、地元資本を中心に完成したもの(実際は不足分を関西資本で補填)だったという。

前置きが長くなってしまったが、抱洋閣や箱崎水族館は1932(昭和7)年に箱崎海岸の埋め立てが進み、国道3号線(当時は2号線)開設にともなって解体撤去されているので、博多人が自力で建設し迎賓館&潮湯として運営した「大學湯抱洋閣」の名前と誇りを受け継いだのがこの「大學湯」なんだと思う。

渡辺與八郎が招致資金を提供して1903(明治36)年に開学したのが福岡医科大学(現・九州大学医学部)だ。当初の「大學湯抱洋閣」の大学とは医科大学のこと。工科大学の招致と帝国大学への昇格にも、與八郎は「柳町遊郭」全移転という解決策(新柳町)を実施している。

1911(明治44)年、箱崎に工科大学が開学して医学部と共に九州帝国大学となった。工学部に加えて法学部、文学部、農学部などが次々と開設されて、大学近くの現在地で銭湯を改めて開業するのは自然な流れだったと推察できる。福博電気軌道の終点・九大前停留所は大學湯から徒歩数分である。

そもそも銭湯は開業運営資金などのハードルも高く、資産家や土地の名士が、運営管理者を雇って始めたものが多い。売りに出された銭湯を居抜きで購入して営業するのでなく、新築で始めたというのは相当な財力か後援者がいなければ難しい。今回の「大學湯」建築は他の銭湯とは一線を画す造りで、それ故の登録文化財答申なので尚更である。

2つの施設に資本等の関係がないのなら、名前だけ譲り受けたという可能性も残る。前施設の運営を担っていた(支配人など)のが石井家なのではないかという考察もできる。

2005年に亡くなられたという石井フミさんにこの件を直接伺い確認したかったが、私が2004年に初めて銭湯を訪問した頃は、すでに番台に姿はなかった。少なくとも私が銭湯利用で伺った時にはお会い出来ていない。番台にいた娘さん(だと思う)にこの件を尋ねてみたが「昭和7年に始めた以外、古いことはわからない」との返答で、そのまま何度か営業中の銭湯を利用しただけで2012年に廃業された。

その後、保存活用に向けた企画展示を拝見したり、クラファンにも少しだけ参加させていただいたので、今回の登録はやはり嬉しい。営業中の2005年・2009年に建物内部などを少しだけ撮影させてもらったのも、今となっては貴重な記録かもしれない。もちろん廃業後も写真は撮る機会があったけど、営業中の生活感・使用間は別物だと思う。

今年は、登録に向けて昨年夏に資料収集を担当した博多区上川端の「冷泉荘」も国登録有形文化財に登録されたので、私的には二重の喜びだ。これからの「大學湯」の展開にも期待したいが、博多人の心意気で生まれた前身施設のことも前史(参考)として知ってほしいなと思う。

ちなみに、箱崎浜の埋め立て&大學湯開業と同時期に「箱崎浜埋立地分譲」広告用鳥瞰図を描いたのが、私がライフワークで研究している鳥瞰図絵師・吉田初三郎である。埋立で新たに設けられた住所記載もあるが、戦後の町界町名整理によって「箱崎◯町名」となり、小松町交番や交差点名などに名残りを残すのみ。貝塚という地名もこの時に生まれている。

 


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