記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

日本最後の城・旭城と宇島鉄道

2007年03月19日 18時19分36秒 | 鉄道
 日本で一番最後に出来たお城は、私の実家のある豊前市にある。
豊前小笠原新田藩の居城としての築城はなんと明治2年だ。その
たった1年数ヶ月後に廃藩置県となり、居城も廃城取り壊しとな
った悲運の城である。

 で、私とその城の関係はというと、実は養父の家はこの城が築
城された一帯を納める豪農であった。築城への領土提供、労働力
提供などにも関わっており、養父の実家は解体した城の木材で建
築され現在も母屋が残っている。天井に上ったことがあるが、と
てつもなく大きな梁や材木が使われ、築130年以上の現在も凛
とした佇まいを見せてくれている。

 福岡の地元郷土史「海路」最新4号に、その「旭城」のことが
載っている。知らなかった記述もあるが、資料が少ないせいか、
残念ながら推測部分が多かった。日本の城の解説本には結構紹介
されている旭城だが、本当に未知の部分が多いのである。

 旭城は周囲にたくさんあった古墳の石を活用して石組みがなさ
れている。この地の地名が「塔田」「千束(ちづか)」というこ
とを考えれば、以前は本当に多くの塚があったと容易に想像でき
る。石組み工が現豊前市界隈にはいなかったのが謎だと記事には
書いてあるが、同じ豊前国の10キロ先には耶馬渓があり、そこ
には江戸期から名工と呼ばれる石工がいた。日本一のオランダ橋
である8連耶馬渓橋をはじめ、石橋がこの界隈に多いのは地元の
人なら知っていることである。

 旭城廃城後、北側の平地には戦前、曾祖父が草競馬場を造り、
一時賑わったという。大正3年開通でこの界隈を通った宇島鉄道
(昭和9年廃止)には当初、最寄り駅は無かったが、大正末には
塔田駅が出来ている。案外、草競馬場の存在も新駅づくりに貢献
したのかもしれない。

 草競馬場は戦後、私も通った千束小学校が移転し現在まで百年
以上の歴史を築いている。小学校の運動会の時、我が家は必ず旭
城の城垣の一番良い場所に陣取った。戦後の農地改革で多くの土
地は小作人だった方々へ渡ったが、今も2町歩を超える田んぼが
本家には残る。ちなみに養父は長男だが、家を継ぐのがイヤで家
を出たそうだ。

 私が通った千束中学校は、同じく宇島鉄道千束駅のあった場所
で、戦後に中学校となる以前は校庭の大部分が車両機関庫があっ
た場所。今は鉄筋校舎で玄関も北東側を向いているが、以前は木
造校舎や講堂があった西側が玄関で、ここには宇鉄時代の名残の
ホーム跡が自転車置き場に沿って残っていた。県道から駅に入る
橋本家(以前は書店)からの道が、辛うじて旧駅前の風景を残す。

宇島鉄道の終点は、対岸に耶馬渓青地区(洞門がある場所)があ
る有田地区にあった耶馬渓駅である。70数年前に廃止になった
宇鉄であるが、なんと当時の駅舎がまだ残り人が住んでいるから
驚きである。駅舎とともに立派な石組みの終着ホームもそのまま
残っている。

 旭城跡には隣の黒土村にあった千束神社を移し、遠縁にあたる
佐々木家が管理している。聞けば今も小笠原家と交流があるそう
である。小学校の時の担任の先生は、旭城小笠原藩の武家の出で
知り合いにも武家の末裔が多い。これら分散しているであろう資
料を集める手だてが無いものかと、帰省のたびに考える。

宇島鉄道の沿線及び耶馬渓鉄道の話はまたの機会に。

※写真:廃止から70年余り、今も残る宇島鉄道の築堤跡と
    左手奥の森が旭城(現在は千束神社)
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