記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

4月10日まで福岡三越にて開催中「時空の散歩展」構成お手伝い。

2011年04月05日 21時52分09秒 | 福博まちの記憶
4月1日から福岡三越9Fギャラリーで開催中の「福岡・天神 時空の散歩展」(主催:西日本鉄道・入場無料)は200年前・100年前そして50年前の天神を古地図や古写真で辿る企画展。私はそのうち100年前+75年前、50年前の企画構成をお手伝い。

天神のまちとしての発展の始点は、今からちょうど100年前の明治44年に呉服商「紙与」の当主・渡辺與八郎が私財を投げ打って開通させた博多電気軌道(のちの西鉄循環線など)の開業から。その前年に開催された第13回九州沖縄八県連合共進会に合わせて、福博電気軌道がすでに開業していたものの、まだ天神に発展の祖は無い。しかし、博多電気軌道が開通したことで天神交差点が誕生し交通の要衝となり、大正13年には九州鉄道(現在の西鉄天神大牟田線)と福岡駅の開業で都心としての「天神」が誕生。天神発展三段跳びのホップの年。

展示では、福岡市近代化の大恩人である渡辺與八郎の功績を年表やパネルで紹介。「渡辺通り」にその名を遺す渡邊與八郎。福岡市役所やソラリア一帯の肥前堀埋め立てに協力し、福岡市にパン食文化が根付くきっかけを作り、中洲が西日本一の歓楽街となる礎を築き(専売公社などの工場を堅粕へ移転)、当時は熊本や長崎より小さい九州5番目の小都市だった福岡市が発展するきっかけを作り(医科大学誘致では率先して誘致活動資金を提供=現在の九州大学医学部)、工科大学誘致に遊郭がある事が問題だと知ると遊郭自体を移転させ(九州大学工学部など誘致、大浜の柳橋遊郭を新柳町=現在の清川一帯へ町ごと移転)、博多港と博多駅とを結ぶ循環道路を計画(人力車しか走ってない時代に8m幅道路を造り、4つの橋を架け、軌道=路面電車を走らせた)など功績の一部を紹介。

さらに武蔵温泉(現・二日市温泉)発展の基礎づくりや唐津への鉄道延伸、太宰府や二日市への鉄道延伸など與八郎が構想した計画図も展示。娯楽施設が皆無だった時代に、彼が有力発起人となり水族館を開設するなど、その構想は一民間人の域を越えている。さらに北九州市発展の基礎となった官営八幡製鉄所誘致に必要な土地埋め立て、九州電気軌道(のち西鉄北九州線)の福岡側の発起人代表。北九州と福岡を結ぶ都市間高速鉄道の構想すら持っていた。これらが明治40年から44年に與八郎が伝染病で急死するまでのわずか5年間で実現していることは驚きだ。

一方で招致合戦の末に開校した福岡医科大学(現・九州大学医学部)の苦学生を資金援助したり、呉服屋から百貨店への進化を見据えた準備をしたり(紙与呉服店は大正期に呉服商を廃止し、商品などは福岡市初の百貨店・玉屋へ引き継がれた)、彼が46歳で急死しなければ、あと2年でも3年でも生きていればいったいどんな事をやったのか。今の福岡市の発展は與八郎が遺した様々な地域遺産の上に成り立っている。その功績の証として「渡辺通り」の名があるが、循環線や吉塚線のあとはもちろん、大正通りや城南線などは彼が生前に計画し用地買収していったもので後に道路として整備された。そしてその沿線には今も紙与のビルや駐車場が至る所にある訳だ。

博多築港が完成し、大陸への重要港となった昭和11年は福岡市発展のキーポイント、ステップの年。吉田初三郎が描いた「福岡市鳥瞰図」を中心に、当時の福岡市の町並みや施設の写真を展示。今から50年前の昭和36年は、天神が今のような都心となるジャンプの年。福岡駅の高架駅化、バスセンターの開業、西鉄名店街や福岡ビルの開業も50年前だ。ここでは西鉄が創立100周年の際に制作した昭和36~37年の天神巨大ジオラマとその当時の町並み写真で構成。渡辺通りをNゲージの路面電車が元気に走っている。

展示は4月10日まで。会場入口では、拙著「ふくおか絵葉書浪慢」「西鉄ライオンズとその時代」「美しき九州」などをはじめ、フォトブックシリーズなども特別頒布中。

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