記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

吉田初三郎の鳥瞰図読み解き術

2011年04月24日 23時47分27秒 | 吉田初三郎
このところ企画展や出版、iアプリなど様々なカタチで吉田初三郎の鳥瞰図作品が紹介されている。研究者としては喜んでいい事なのかもしれないが、その多くが単なる鳥瞰図作品の紹介だけで執筆製作の背景や逸話などが紹介されることは殆ど無い。言い換えれば、単に初三郎の鳥瞰図が物珍しいだけで表面的な取り上げ方に終始されている感覚が強い。

基本的なことだが、初三郎の鳥瞰図は依頼者がいて執筆されたものが大半である。印刷物になったものは全て依頼者=発注者がいると言っていい。言い換えると初三郎が描く鳥瞰図は、クライアントの意向によって情報を誇張したり削除したり、事実でないことも書き加えられていることもある。都市の鳥瞰図であれば、今の都市風景ではなく、これからの計画も加えられている場合も多い。いわば近未来の鳥瞰図であり、それが何かの事情で実現しなかった事もある訳だ。

これは描かれた内容を鵜呑みにして「図を読み解く」事には危険が伴うということだ。少なくとも、初三郎が大半の印刷図に添えている「絵に添えて一筆」や鳥瞰図裏面の都市解説などを読み砕き、それから鳥瞰図を観るべきである。可能ならば描かれた都市や鉄道などの歴史沿革を把握して観ることを勧める。都市の歴史に関する知識が増えれば増えるほど、実は初三郎図には様々な工夫が込められていることに気づく。

その一例が「福岡市鳥瞰図(昭和11年)」。依頼主は博多商工会議所と福岡市。博多築港の第一期竣工を記念して同年春に開催された「博多築港大博覧会」の前宣伝を兼ねて製作された。市の施設や交通網、市内電車の電停や町名は詳しく記載があるが、描かれた町並みには当時の観光スポットや街角のランドマーク的建物は全て描かれているものの、文字の記載は無い。この中には鳥瞰図制作時にまだ完成していなかった施設も多数描かれている。

当時福岡市にあったデパート、福岡玉屋と松屋は建物と位置からすぐにそれと判る。それに加えて、同年10月に九州初のターミナルデパートとして開業する岩田屋の建物もすでに天神交差点角に描かれている。鳥瞰図の完成は同年1月頃、その頃はまだ外観も完成していない。那珂川沿い、東中洲西大橋の袂にあったカフェ・ブラジレイロは白亜の建物が見える。現在は清流公園となっている中洲の南端には、その名の由来となった料亭・清流荘がきちんと描かれている。

さらに眼を東に向け筥崎宮そばを見て行くと、称名寺の「博多大仏」が本当に小さく描かれている。知識が無ければ単にゴミだと思うほど、それでもきちんと大仏のシルエットが描かれているのだ。大仏は戦時下の金属回収で抽出され姿を消し、今は台座だけが遺る。そして雁ノ巣飛行場、鳥瞰図が完成した後の6月6日に開場式が行われた。鳥瞰図には、昭和9年10月にすでに定期航路が運行停止している名島飛行場とともに描かれている。

この例だけでも初三郎の鳥瞰図が描かれた地点の「現在」では無い、近未来の予定図であることが判る。つまり、鳥瞰図に描かれているからといって描かれたものが全て実在したという事にはならない。2000点近くあると言われる初三郎の鳥瞰図、その4割強が都市の鳥瞰図だ。都市の歴史を判った上で初三郎図を読み解く楽しみを知ってほしい。全国の都市や景勝美を観て来た絵師がどんな視点で自分の知る町を観ていたのか、それに気づくということは「まちの魅力」を再発見することにも繋がる。

新潮社から4月に発刊された「日本鉄道旅行歴史地図帳」シリーズ12号・九州沖縄編の表紙は初三郎「鹿児島市鳥瞰図」である。この図の解説の中で、監修の今尾恵介氏は図を昭和30年頃の発刊と結論づけ読み解き持論を展開しているが、正確には昭和25年発刊の作品。依頼主の鹿児島市の都市計画が盛り込まれていて「近未来の鹿児島」なのである。ご遺族のもとには肉筆原画や契約書、私の手元にはこの図の印刷パンフや直筆トレース図、そして取材時の記録写真ネガがある。震災の影響で編集作業の追い込みも大変だったようだが、このシリーズの鳥瞰図画像の提供者である私としては少々残念。

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