2007年もあと少し、今年の風邪は結構しつこい。最初にひいてからもう
2週間以上になるが、まだ完全に直りきらない。もっとも、全く安静にして
いないのだからそれも仕方ないかもしれない。22日で41歳になった。
23日(日)朝、9月に二日市の方から教えていただき気になっていたこ
とを調べに、二日市温泉の老舗旅館「玉泉館」へ出向いた。鳥瞰図絵師・前
田虹映の同温泉を描いたものに「延寿館ホテル」がある。昭和13年に描かれ
た鳥瞰図の手がかり・原画所在を求めて何度か同温泉街を訪れたが、判った
のは延寿館が平成元年に業態変更して老人ホームになっていることと、今の
経営者は全く絵の存在を知らないということだった。
その延寿館ホテルの「別館」として建てられたのが、現在の玉泉館だと知
ってから「早く確認せねば」と引っかかっていた。なんとか今年のうちに確
認をしたかった訳だ。その10日ほど前、促すように前田稀さんから電話をい
いただいた。「武蔵温泉とはどこかね?そこには何も遺っていないの?」。
天拝山の麓、二日市温泉のそばにある武蔵寺にちなんで戦後まで武蔵温泉と
呼ばれた二日市温泉、前出の説明を稀さんに言って手がかりがないことを伝
えた。
この日、全くアポ無しで訪れたにも拘わらず玉泉館の方々には丁寧に応対
していただいた。まず旅館の正面に建ち、所有する戦前の延寿館ホテルの絵
はがきと見比べて、ここが「別館」であることを確認。ほぼ戦前の建設時と
変わらぬ姿を留めている。高浜虚子などの縁の宿である。前田虹映作の「延
寿館ホテル御案内」を見せたところ、「女将が会いますのでお待ちください」
と言われロビーに設置してある囲炉裏で待つ。
九州武蔵温泉延壽館ホテル御案内
女将から同館の歴史を聴く。同館が現在の「玉泉館」と名を変えたのは、
GHQによる統制が終わり所有者に建物が返却された昭和27年。再開するに
あたり、初代から引き継いだ館は息子兄弟に別々に与えられて別館が名を変
えたという。当初は広大な延寿館ホテルの敷地内にあって入口はひとつだっ
たので、お客への案内も大変だったそうだ。
今は立派な市道が館の前を横切るが、当時は細い農道一本。別館時代から
引き継いだ二千坪の敷地を引き継いだ女将は80歳を超えているというが、
まだまだお元気そうにみえる。持参した絵葉書など資料を見て「懐かしい」
を連発、家族写真などは遺るが館の当時の雰囲気を伝える写真はほとんど遺
っていないのだそうだ。当時の大広間は接収を経て現在も健在である。
延寿館の本館が取り壊される時、庭の桜の樹をはじめ建物の欄間などいく
つかを玉泉館へ移したという。しかし虹映の絵は無かったとのことである。
なぜ虹映が延寿館ホテルを描いたのか、という理由は判った。延寿館を経営
していた三條家は太宰府天満宮などにも関係が深い。延寿館の初代は、博多
大浜にあった潮湯を解体した資材も活用して延寿館ホテルを建てたとのこと。
会館当時の延寿館ホテルの絵葉書には、クラシックな自家用車が3台留ま
っているが、このあたりでは同館のみ送迎車をこれだけ所有していたとのこ
と。宿泊客の希望があれば雲仙や長崎へも案内していたそうである。長崎や
雲仙を訪れる外国人をそのままホテルへ案内することも。博多の奥の湯とし
て、太宰府天満宮の門前湯として、二日市温泉の最盛期であろう。
女将の弟さんは観光協会長だという。二日市温泉の歴史についても詳しい
というので、改めて話しを聴きに訪れることとした。同館には画人が住まえ
る離家のスペースがある。戦後も著名な画家がしばらく住んだという。ひょ
っとすると、前田虹映の鳥瞰図はここで描かれたのではないか、と思った。
延寿館ホテルの鳥瞰図だけでなく、その1年後には太宰府天満宮の鳥瞰図
や境内十景を描き寄贈している。寄贈者は三條家、つまり延寿館ホテルだ。
ご長男である前田稀さんの「太宰府の絵を描いていた」という微かな記憶か
ら天満宮宝物殿に保管されている絹本原画発見に到ったが、随分遠回りして
寄贈者家に行き着いた訳である。
三條家に遺る縁起物は、ふるさと館ちくしの(博物館)で現在開催されて
いる「お正月」展に展示されている。絵葉書や鳥瞰図折図のコピーをして、
改めて正月明けに玉泉館を訪れることとした。虹映の描いた色紙や掛け軸な
どが遺る可能性もまだある訳である。愉しみは2008年に残しておく。
今日の写真は、延寿館ホテル別館として建てられた昭和13年頃の
現「玉泉館」正面。戦後に何度も建て増しされ、瓦は当時の赤色から
現在は黒になっているが、基本はほとんど変わっていない。
ポストカードブックシリーズ解説・通販
アンティーク絵葉書に観る懐かしの風景・町並み
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鳥瞰図絵師・前田虹映
オールド地図鳥瞰図コレクション・吉田初三郎ほか
2週間以上になるが、まだ完全に直りきらない。もっとも、全く安静にして
いないのだからそれも仕方ないかもしれない。22日で41歳になった。
23日(日)朝、9月に二日市の方から教えていただき気になっていたこ
とを調べに、二日市温泉の老舗旅館「玉泉館」へ出向いた。鳥瞰図絵師・前
田虹映の同温泉を描いたものに「延寿館ホテル」がある。昭和13年に描かれ
た鳥瞰図の手がかり・原画所在を求めて何度か同温泉街を訪れたが、判った
のは延寿館が平成元年に業態変更して老人ホームになっていることと、今の
経営者は全く絵の存在を知らないということだった。
その延寿館ホテルの「別館」として建てられたのが、現在の玉泉館だと知
ってから「早く確認せねば」と引っかかっていた。なんとか今年のうちに確
認をしたかった訳だ。その10日ほど前、促すように前田稀さんから電話をい
いただいた。「武蔵温泉とはどこかね?そこには何も遺っていないの?」。
天拝山の麓、二日市温泉のそばにある武蔵寺にちなんで戦後まで武蔵温泉と
呼ばれた二日市温泉、前出の説明を稀さんに言って手がかりがないことを伝
えた。
この日、全くアポ無しで訪れたにも拘わらず玉泉館の方々には丁寧に応対
していただいた。まず旅館の正面に建ち、所有する戦前の延寿館ホテルの絵
はがきと見比べて、ここが「別館」であることを確認。ほぼ戦前の建設時と
変わらぬ姿を留めている。高浜虚子などの縁の宿である。前田虹映作の「延
寿館ホテル御案内」を見せたところ、「女将が会いますのでお待ちください」
と言われロビーに設置してある囲炉裏で待つ。
九州武蔵温泉延壽館ホテル御案内
女将から同館の歴史を聴く。同館が現在の「玉泉館」と名を変えたのは、
GHQによる統制が終わり所有者に建物が返却された昭和27年。再開するに
あたり、初代から引き継いだ館は息子兄弟に別々に与えられて別館が名を変
えたという。当初は広大な延寿館ホテルの敷地内にあって入口はひとつだっ
たので、お客への案内も大変だったそうだ。
今は立派な市道が館の前を横切るが、当時は細い農道一本。別館時代から
引き継いだ二千坪の敷地を引き継いだ女将は80歳を超えているというが、
まだまだお元気そうにみえる。持参した絵葉書など資料を見て「懐かしい」
を連発、家族写真などは遺るが館の当時の雰囲気を伝える写真はほとんど遺
っていないのだそうだ。当時の大広間は接収を経て現在も健在である。
延寿館の本館が取り壊される時、庭の桜の樹をはじめ建物の欄間などいく
つかを玉泉館へ移したという。しかし虹映の絵は無かったとのことである。
なぜ虹映が延寿館ホテルを描いたのか、という理由は判った。延寿館を経営
していた三條家は太宰府天満宮などにも関係が深い。延寿館の初代は、博多
大浜にあった潮湯を解体した資材も活用して延寿館ホテルを建てたとのこと。
会館当時の延寿館ホテルの絵葉書には、クラシックな自家用車が3台留ま
っているが、このあたりでは同館のみ送迎車をこれだけ所有していたとのこ
と。宿泊客の希望があれば雲仙や長崎へも案内していたそうである。長崎や
雲仙を訪れる外国人をそのままホテルへ案内することも。博多の奥の湯とし
て、太宰府天満宮の門前湯として、二日市温泉の最盛期であろう。
女将の弟さんは観光協会長だという。二日市温泉の歴史についても詳しい
というので、改めて話しを聴きに訪れることとした。同館には画人が住まえ
る離家のスペースがある。戦後も著名な画家がしばらく住んだという。ひょ
っとすると、前田虹映の鳥瞰図はここで描かれたのではないか、と思った。
延寿館ホテルの鳥瞰図だけでなく、その1年後には太宰府天満宮の鳥瞰図
や境内十景を描き寄贈している。寄贈者は三條家、つまり延寿館ホテルだ。
ご長男である前田稀さんの「太宰府の絵を描いていた」という微かな記憶か
ら天満宮宝物殿に保管されている絹本原画発見に到ったが、随分遠回りして
寄贈者家に行き着いた訳である。
三條家に遺る縁起物は、ふるさと館ちくしの(博物館)で現在開催されて
いる「お正月」展に展示されている。絵葉書や鳥瞰図折図のコピーをして、
改めて正月明けに玉泉館を訪れることとした。虹映の描いた色紙や掛け軸な
どが遺る可能性もまだある訳である。愉しみは2008年に残しておく。
今日の写真は、延寿館ホテル別館として建てられた昭和13年頃の
現「玉泉館」正面。戦後に何度も建て増しされ、瓦は当時の赤色から
現在は黒になっているが、基本はほとんど変わっていない。
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鳥瞰図絵師・前田虹映
オールド地図鳥瞰図コレクション・吉田初三郎ほか
このブログで画像に出会えたこと 感謝いたします。