前回の内容があまり深刻な内容でしたので、少し進まなくなってしまいました。人によれば、これはかなり夢のない、希望のない、現実直視の・・・そのようなことはイエスの言葉に求めていないという人、考えてもいないという方がほとんどであろうからと思うからです。
◆使徒パウロがロマ書第7章で語った自己省察から、人間の事が理解され、カルヴァンが語った原罪の定義において、現代は遺伝的との文言に著された内容がかなり解明されてきているからです。私たちは”知らなくてもよい権利”をもつのだと言うくらい。これはつまり、その人の生まれる前に性別はまだしも、ある病気になる確立が高いとか、結婚の相手との子供はこういう病気になる確立がありますなどといういわば、決して踏み入ってはならない領域までも分かってきているということで、そのようなことは知りたくもないと主張する権利があるということです。
◆カルヴァンの原罪の定義はつぎのような内容でした。
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原罪とは、霊魂の全部に浸透せる、我々の性質の遺伝的壊敗または腐敗であって、第一に我々を神の怒を蒙るべきものとし、次いでまた 聖書が肉の行為(ガラテヤ書5の19)と呼ぶところの行為を、我々のうちに生ぜしめるものと思われる」(「綱要」2篇1章8節)
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◆”我々の性質の遺伝的壊敗または腐敗であって”、遺伝ということがどこまでのことを言っているのか、当時は生理医学的な事までは正確には解明されていなかっただろうが、パウロが創世記において、アダムとキリストを解説しているところなどいずれその罪の介入は、人類を通して伝搬し、それを解消するイエスの十字架以外には、我々の救いはないと言い切っている(無論、他の箇所にもある)のは、他のあらゆる宗教のでは解消できない実際的な現実解決を述べ伝えたのだと僕は、思っています。それは、無論、一般化できない事柄ですから、つまりひとりひとりが、自分の十字架を背負っているということになるのではないかと思います。
◆先祖伝来の遺伝子を少なくとも僕もあなたも、生きとしいけるすべての生命あるものは受け継いで来ているのですから、これはいかようにも自分の努力で是正できないことがらです。どうしようもない事柄に悩んでいる方が実は多くいるのではないか、それでなければ端折ってごまかしの中で生きているか・・・。僕が今まで会ってキリスト教の話をして無闇に聞かせられることに否定を示されない方というのは、話を聞くとその人の代々の中で誰かが(遺伝子を引き継いできた人の誰かか)、絶望に神を求めたことがあったか何らかでキリスト教に触れたような人であったのだろうなと思わせられることが多くありました。それら今のあなたの遺伝子に受け継がれた中にあって、イエスのことばに触れてみたいと思った人が、もしあなたであるならば、あなたの代で救いに預かりなさい(あなたの代で完成させなさい)と僕は言いたい。今は亡き、過去にイエスのことばに預かりたいと願った人は、かの地でどれほど喜ばれることだろうかと思ってしまう。キリスト教は言葉が要求される、初めは苦い、しかし、つきない泉のように湧き出てイエスの言葉があなたを励ましてくれることばに変わっていくのです。(・・・と、今回はエモーショナルな書き方となってしまった) 以下 付録・・・
◆単純計算で、先祖の数を数えてみる、ひとりの人間が生まれるためには、両親という二人の人間が存在する。その二人には四人の祖父母、その四人には八人の曽祖父母、八人には十六人・・・。一人が生まれるためには二十代前の世代には優に百万人を越える先祖がいたことになる。しかも、二十の世代にわたって存在した先祖の総和はおびただしい数となる。二十代ならぬ二百代、五千年ほど前を考えると途方もない数字になる。
◇「あなたもそこにいたのか。主が十字架に掛かりし時・・・」という讃美歌がある、あの時、遠くであなたも僕の隣で一緒に見ていた先祖の誰かなのかもしれない。・・・
◆使徒パウロがロマ書第7章で語った自己省察から、人間の事が理解され、カルヴァンが語った原罪の定義において、現代は遺伝的との文言に著された内容がかなり解明されてきているからです。私たちは”知らなくてもよい権利”をもつのだと言うくらい。これはつまり、その人の生まれる前に性別はまだしも、ある病気になる確立が高いとか、結婚の相手との子供はこういう病気になる確立がありますなどといういわば、決して踏み入ってはならない領域までも分かってきているということで、そのようなことは知りたくもないと主張する権利があるということです。
◆カルヴァンの原罪の定義はつぎのような内容でした。
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原罪とは、霊魂の全部に浸透せる、我々の性質の遺伝的壊敗または腐敗であって、第一に我々を神の怒を蒙るべきものとし、次いでまた 聖書が肉の行為(ガラテヤ書5の19)と呼ぶところの行為を、我々のうちに生ぜしめるものと思われる」(「綱要」2篇1章8節)
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◆”我々の性質の遺伝的壊敗または腐敗であって”、遺伝ということがどこまでのことを言っているのか、当時は生理医学的な事までは正確には解明されていなかっただろうが、パウロが創世記において、アダムとキリストを解説しているところなどいずれその罪の介入は、人類を通して伝搬し、それを解消するイエスの十字架以外には、我々の救いはないと言い切っている(無論、他の箇所にもある)のは、他のあらゆる宗教のでは解消できない実際的な現実解決を述べ伝えたのだと僕は、思っています。それは、無論、一般化できない事柄ですから、つまりひとりひとりが、自分の十字架を背負っているということになるのではないかと思います。
◆先祖伝来の遺伝子を少なくとも僕もあなたも、生きとしいけるすべての生命あるものは受け継いで来ているのですから、これはいかようにも自分の努力で是正できないことがらです。どうしようもない事柄に悩んでいる方が実は多くいるのではないか、それでなければ端折ってごまかしの中で生きているか・・・。僕が今まで会ってキリスト教の話をして無闇に聞かせられることに否定を示されない方というのは、話を聞くとその人の代々の中で誰かが(遺伝子を引き継いできた人の誰かか)、絶望に神を求めたことがあったか何らかでキリスト教に触れたような人であったのだろうなと思わせられることが多くありました。それら今のあなたの遺伝子に受け継がれた中にあって、イエスのことばに触れてみたいと思った人が、もしあなたであるならば、あなたの代で救いに預かりなさい(あなたの代で完成させなさい)と僕は言いたい。今は亡き、過去にイエスのことばに預かりたいと願った人は、かの地でどれほど喜ばれることだろうかと思ってしまう。キリスト教は言葉が要求される、初めは苦い、しかし、つきない泉のように湧き出てイエスの言葉があなたを励ましてくれることばに変わっていくのです。(・・・と、今回はエモーショナルな書き方となってしまった) 以下 付録・・・
◆単純計算で、先祖の数を数えてみる、ひとりの人間が生まれるためには、両親という二人の人間が存在する。その二人には四人の祖父母、その四人には八人の曽祖父母、八人には十六人・・・。一人が生まれるためには二十代前の世代には優に百万人を越える先祖がいたことになる。しかも、二十の世代にわたって存在した先祖の総和はおびただしい数となる。二十代ならぬ二百代、五千年ほど前を考えると途方もない数字になる。
◇「あなたもそこにいたのか。主が十字架に掛かりし時・・・」という讃美歌がある、あの時、遠くであなたも僕の隣で一緒に見ていた先祖の誰かなのかもしれない。・・・
