復活後イエスが弟子たちに話したことについて少し考えてみたい。数回、肉と霊のことについて短く述べてきました。そもそもの発端は、イエスがイスラエルの教師であるニコデモに、地上で実際に起こっている霊のこと(パウロに言わせれば、肉の人もあれば霊の人もあると手紙で書いている)を話されたことについて(ヨハネによる福音書第3章)僕らがあれやこれやを詮索する前に実際にそうなのだと説明されれば、確認しようがないのでそうだと思う以外に無いことについて。
◆イエスの有名な言葉「あらたに生まれなければ神の国を見ることはできない」についてのニコデモの問いから始まる会話です。イエスは地上のことが分からなければ、天上のことはもっと分からないだろうと言われたのだが、すこし地上のことを考えて見た。
◆生き物に命を与えられ、生きている僕らがその霊の中にうごめいてあるということになるとする、想像たくましくすればそれらの霊は、生きている今の僕らにも何らか影響を与えていることになろう。生まれたときにその人に入った地上の霊が肉体と一体となって生きつつあるのが「魂」と呼ばれるもの、その霊が抜ければ人は死んで、抜けた霊は仏教で言えば49日は地上に留まり、その後、どこかへ消えていく。執念深くなると地上にそのまま留まり誰かに入り込み悪さをする。自分が死んでいないと思えば、時折、可視化する(幽霊、怖いものではなく霊の休まり所がなく居所をさがす)、あるいは、誕生のとき、地上にある霊は赤子の誕生の時にその肉体に入りいわば生まれ変わりをするのではないだろうか。悪霊が入ると神のもっとも愛される人間を殺害するという悲惨なことが実際に起こっていると考える。あるいは自傷する。それは、福音書の中でもイエスが墓場に繋がれ、自傷する男から悪霊を抜き豚に霊が乗り移るなどの話がある。
◆キリストの霊は、こういうことからも聖霊というものは信ずるというより無くてはならないものだと思われてくる。聖霊を送ってくれる、それに繋がっているということは大変誇らしいすばらしいことだと思います。イエスは復活後、弟子たちに「聖霊を受けなさい」と言われたのです。神からのイエスの霊、真理の霊、潔い霊、つまり聖霊が信ずる者には与えられていることになります。悪魔の霊は浮遊する霊、また悪霊も人の命を奪おうとうろうろ飲むべき者を訪ね歩いているとあります。だから、身を正して過ごさねばなりませんということになる。先に書いたけれど使徒の手紙は、霊と肉について書いていることに注目し是非、読んで欲しいと思います。
◆コリント人への第一の手紙から霊についていくつか拾って見ます。(口語訳)************************
(2:4) そして、わたしの言葉もわたしの宣教も巧みな知恵のことばによらないで霊と力との証明によったのである。
(2:10)そして、それを神は御霊によって私たちに啓示してくださったのである。御霊はすべてのものを極め、神の深みまでもきわめるのだからである。
(2:11)いったい、人間の思いはその内にある人間の霊以外にだれが知っていようか。それと同じように神の思いも神の霊以外には知るものはない。
(2:12)ところが私たちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜った恵みを悟るのである。
(2:13)この賜物について語るにも私たちは、人間の知恵が教える言葉を用いないで御霊の教える言葉を用い霊によって霊のことを解釈するのである。
(2:14)生まれながらの人は神の御霊の賜物を受け入れない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。
(2:15)しかし、霊の人はすべてのものを判断するが、自分自身は誰からも判断されることはない。
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◆イエスの有名な言葉「あらたに生まれなければ神の国を見ることはできない」についてのニコデモの問いから始まる会話です。イエスは地上のことが分からなければ、天上のことはもっと分からないだろうと言われたのだが、すこし地上のことを考えて見た。
◆生き物に命を与えられ、生きている僕らがその霊の中にうごめいてあるということになるとする、想像たくましくすればそれらの霊は、生きている今の僕らにも何らか影響を与えていることになろう。生まれたときにその人に入った地上の霊が肉体と一体となって生きつつあるのが「魂」と呼ばれるもの、その霊が抜ければ人は死んで、抜けた霊は仏教で言えば49日は地上に留まり、その後、どこかへ消えていく。執念深くなると地上にそのまま留まり誰かに入り込み悪さをする。自分が死んでいないと思えば、時折、可視化する(幽霊、怖いものではなく霊の休まり所がなく居所をさがす)、あるいは、誕生のとき、地上にある霊は赤子の誕生の時にその肉体に入りいわば生まれ変わりをするのではないだろうか。悪霊が入ると神のもっとも愛される人間を殺害するという悲惨なことが実際に起こっていると考える。あるいは自傷する。それは、福音書の中でもイエスが墓場に繋がれ、自傷する男から悪霊を抜き豚に霊が乗り移るなどの話がある。
◆キリストの霊は、こういうことからも聖霊というものは信ずるというより無くてはならないものだと思われてくる。聖霊を送ってくれる、それに繋がっているということは大変誇らしいすばらしいことだと思います。イエスは復活後、弟子たちに「聖霊を受けなさい」と言われたのです。神からのイエスの霊、真理の霊、潔い霊、つまり聖霊が信ずる者には与えられていることになります。悪魔の霊は浮遊する霊、また悪霊も人の命を奪おうとうろうろ飲むべき者を訪ね歩いているとあります。だから、身を正して過ごさねばなりませんということになる。先に書いたけれど使徒の手紙は、霊と肉について書いていることに注目し是非、読んで欲しいと思います。
◆コリント人への第一の手紙から霊についていくつか拾って見ます。(口語訳)************************
(2:4) そして、わたしの言葉もわたしの宣教も巧みな知恵のことばによらないで霊と力との証明によったのである。
(2:10)そして、それを神は御霊によって私たちに啓示してくださったのである。御霊はすべてのものを極め、神の深みまでもきわめるのだからである。
(2:11)いったい、人間の思いはその内にある人間の霊以外にだれが知っていようか。それと同じように神の思いも神の霊以外には知るものはない。
(2:12)ところが私たちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜った恵みを悟るのである。
(2:13)この賜物について語るにも私たちは、人間の知恵が教える言葉を用いないで御霊の教える言葉を用い霊によって霊のことを解釈するのである。
(2:14)生まれながらの人は神の御霊の賜物を受け入れない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。
(2:15)しかし、霊の人はすべてのものを判断するが、自分自身は誰からも判断されることはない。
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