500年前の宗教改革者マルチン・ルターの正当なる(このように書くのは、内容は全くもってその通りだなと思うので)彼の文章から大切かなと思わせられたところを抜粋で書いています。今回は掲「キリスト教的人間の自由」の文章から・・・
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そこで私たちは第二部、外なる人の問題に取りかかろう。ここで私たちは、今まで語られたことにつまずいて、「信仰がすべてであって、義となるためには信仰だけで十分であるとすれば、いったいなぜよい行いが命じられているのか。私たちは良いものになりたいと思って、しかも何もしないでよいのか」といつも言っているすべての人に答えたいのである。決してそうではないのだ。あなた方は内的な人であって全く霊的、内的となってでもいたらそうかもしれない。だが、そのようなことは終わりの日に至るまでは実現しないことなのである。地上においては、発端と進歩とがあるだけであって、完成されるのは彼岸の世界においてである。それゆえ、キリスト教的人間は使える僕であって、誰にでも服する」と初めに言ったことは、ここにかかってくる。つまり、キリスト者は自由である限り何をも行う必要はないが、僕である限りあらゆる種類のことをしなければならないのである。
(『キリスト教的人間の自由』7/29-389 ) ・・・続きます。
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(世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p121)・・・
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そこで私たちは第二部、外なる人の問題に取りかかろう。ここで私たちは、今まで語られたことにつまずいて、「信仰がすべてであって、義となるためには信仰だけで十分であるとすれば、いったいなぜよい行いが命じられているのか。私たちは良いものになりたいと思って、しかも何もしないでよいのか」といつも言っているすべての人に答えたいのである。決してそうではないのだ。あなた方は内的な人であって全く霊的、内的となってでもいたらそうかもしれない。だが、そのようなことは終わりの日に至るまでは実現しないことなのである。地上においては、発端と進歩とがあるだけであって、完成されるのは彼岸の世界においてである。それゆえ、キリスト教的人間は使える僕であって、誰にでも服する」と初めに言ったことは、ここにかかってくる。つまり、キリスト者は自由である限り何をも行う必要はないが、僕である限りあらゆる種類のことをしなければならないのである。
(『キリスト教的人間の自由』7/29-389 ) ・・・続きます。
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(世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p121)・・・
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