連休前に当たり、少しく以前から考えていたことをまとめてみたいと思いました。世界のベストセラーとはイエス・キリストの事を書いた聖書のことです。(イエス御自信が旧約聖書も自分の事が書かれているのだと言われたので、一応、旧約、新約聖書一冊のことということでご了解ください)さて、前回にマクグラス先生の著作のお話をしました。僕の持っている他の彼の本にも必ず箇条書きにまとめられた文章が掲載されています。彼が神学博士は無論、分子生物学の博士号などもとられていますので、そのためか論理的に知識を披露して、余韻で学ぶ者に考えさせるといういわゆる大学の先生でもありますので、そのような文章の書き方となっています。
◆僕もまだ若かりし頃に「科学と宗教」などについて、彼の著作にも彼の著作にもその表題の本がありますが、つたない頭でさんざん考えましたので以降は概論的なその類いのものは一応卒業して彼のその本は読んでおりません。
◆今回はそのことを書くのではありませんが、一応、その僕の見解をまとめておきますと 結論は一点になります。イエスは「わたしは、道なり、真理なり、命なり」と有名なその言葉を言われた。「真理」とは何か。キリストもそういう問いを受けたが・・・。科学における、真理とは、誰がそのように検証しても同じ答えがでる、反復性が実証されると言うことですが、それは科学における「真理」とは無論、機械論的にみた反復性のある対象(事象)のことについての事であるとして、さらに一歩下がって、では、そもそも真理であると認めるのは誰かということです。結局、神の創造されし人間なのではないかということです。ここに真理がないと、つまり生き、考えるという基準がないと事象としての真理も真理とは認められないだろうと思うのです。人間がその事象を認めて、判断してその有用性までを確認できる、その提供者(ここではキリストになるが)が真理である、つまり僕らは正しい判断ができるようその生きる真理に繋がらないと事象結果、検証結果がそのとおりであってもその理解のしかた、用い方を間違うであろう。そういう見解を現時点で持っています。つまるところ、人間に確認されて科学というのもなんぼのものという考えが僕にはあるのです。真理とはそのそも意味を持つものであり、人間から離れた真理は、それは真理ではなくただの事象解析結果(事実の判明、神のつくられし世界はこうでしたという結果)でしかないではないかと僕は考えるからです。
◆さて、彼は、著作の中でカール・バルトの言葉を引用し、聖書の学び(神学は)も実際の所、ひろひとりの実践での(学ぶ)行為が伴って真の学びというものだと言っている箇所がありますので、その言葉を掲載し、今回の締めといたします。
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神学は神学者だけの個人的な課題ではない。それは神学部教授たちの個人的な課題でもない。幸いなことに、大半の教授たちより神学についてよりよく理解した牧師たちが、いつの時代にもいたのである。しかし、神学は牧師たちの個人的な研究課題でもない。幸いわいなことに、牧師たちが神学的に幼児であるか無教養人であった時、熱心に神学を追い求めた教会員が繰り返し現れたのであり、知己には全会衆がそうであった。神学は教会の事柄なのである。
(アリスター・E・マクグラス 著 「神学のよろこび」 芳賀 力訳)
****************************************** ・・・ Ω
◆僕もまだ若かりし頃に「科学と宗教」などについて、彼の著作にも彼の著作にもその表題の本がありますが、つたない頭でさんざん考えましたので以降は概論的なその類いのものは一応卒業して彼のその本は読んでおりません。
◆今回はそのことを書くのではありませんが、一応、その僕の見解をまとめておきますと 結論は一点になります。イエスは「わたしは、道なり、真理なり、命なり」と有名なその言葉を言われた。「真理」とは何か。キリストもそういう問いを受けたが・・・。科学における、真理とは、誰がそのように検証しても同じ答えがでる、反復性が実証されると言うことですが、それは科学における「真理」とは無論、機械論的にみた反復性のある対象(事象)のことについての事であるとして、さらに一歩下がって、では、そもそも真理であると認めるのは誰かということです。結局、神の創造されし人間なのではないかということです。ここに真理がないと、つまり生き、考えるという基準がないと事象としての真理も真理とは認められないだろうと思うのです。人間がその事象を認めて、判断してその有用性までを確認できる、その提供者(ここではキリストになるが)が真理である、つまり僕らは正しい判断ができるようその生きる真理に繋がらないと事象結果、検証結果がそのとおりであってもその理解のしかた、用い方を間違うであろう。そういう見解を現時点で持っています。つまるところ、人間に確認されて科学というのもなんぼのものという考えが僕にはあるのです。真理とはそのそも意味を持つものであり、人間から離れた真理は、それは真理ではなくただの事象解析結果(事実の判明、神のつくられし世界はこうでしたという結果)でしかないではないかと僕は考えるからです。
◆さて、彼は、著作の中でカール・バルトの言葉を引用し、聖書の学び(神学は)も実際の所、ひろひとりの実践での(学ぶ)行為が伴って真の学びというものだと言っている箇所がありますので、その言葉を掲載し、今回の締めといたします。
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神学は神学者だけの個人的な課題ではない。それは神学部教授たちの個人的な課題でもない。幸いなことに、大半の教授たちより神学についてよりよく理解した牧師たちが、いつの時代にもいたのである。しかし、神学は牧師たちの個人的な研究課題でもない。幸いわいなことに、牧師たちが神学的に幼児であるか無教養人であった時、熱心に神学を追い求めた教会員が繰り返し現れたのであり、知己には全会衆がそうであった。神学は教会の事柄なのである。
(アリスター・E・マクグラス 著 「神学のよろこび」 芳賀 力訳)
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