marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(314回目)受難週にあたり:イエスはユダを哀れんだのだ

2017-04-09 21:31:52 | 聖書・聖句
 2017年受難週が始まりました。受難とは無論イエスが十字架にかかられる時を迎えた週ということです。
◆通常、プロテスタントでは木曜日に洗足木曜日(イエスが弟子の足を洗われた)として特別の祈り会がもたれていると思います。
最後の晩餐としての聖餐、イエスがこれを記念として行いなさいと弟子たちに分け与えたパン(これは十字架で裂かれるイエスの肉の象徴と同時に、旧約時代、出エジプト記で種入れぬパンを食べて脱出の用意をしたことの暗示を示す)とブドウ液(これは十字架で流されるイエスの血と同時に出エジプト記で鴨居に血を塗られた家々の人々が災い「死」が通り過ぎ脱出に参与することができたことの暗示を示す)をその木曜の夜にいただきます。そして、金曜日(13日の金曜日が不吉な嫌な怖い日であることはこの辺から来ていますが)に十字架にかかられる。(ユダヤの一日は夕方からが一日の始まりとなります。三日後の日曜日がイエスの復活の朝となり、日曜礼拝を持つという理屈になります。ただし、教派によりましては、旧約での記載されている神の休息は七日目に休まれ、これを戒めとして人々に守るように教えられたのですから(申命記)、イエスの復活=休み(日曜日)とは無関係と土曜日に礼拝をもたれるところもあります)。開けて日曜日が復活を祝う、イースターとなります。さて、今回の述べたいこと・・・
自分の言葉で読んで、引っかかりを覚えることの一つ。それは最後の晩餐時、12弟子のひとりユダがイエスを裏切ると指摘を受ける場面。ユダがみんなの金庫番をしていたことや、内面としてはイエスがこの世の現実において本当に自分たちを解放する王となるであろう、そして自分はもっとリッチな気分になれるであろうなどを期待していた・・・ところが、その野望が打ち砕かれていく事に対して期待が裏切られ、一転イエスを引き渡すことにした・・・というようなことは一応それなりに考えられることではあるが、それよりもなによりも、この12弟子をそもそも選んだのはイエス御自信ではなかったか。四福音書のそれぞれの記者は、ユダがイエスを裏切るという場面を描いてその強調点は書き方が異なるが、僕にはどうもそれとはもっと異なる深い意味合いがあると思えるのです。(僕に言わせれば、もっと違う書き方があったのではないかと思われるのです。しかし、当時の読者を思えばこのようにユダを悪者に決めつける書き方の方がわかりやすかったのだろうけれど。)
◆福音書その場面:マタイ26:20-25、マルコ14:17-21、ルカ22:21-23(但し事前計画22:3-6記載あり)、ヨハネ13:21-30
 ここで一応異論はあるが福音記者で12弟子であるのはマタイとヨハネです。長命でしかも裕福で、イエスの母面倒も十字架上のイエスから託され、多くのイエスから癒やされた(神としての業、奇跡を起こされた)人々もおそらくその群れにいたであろうことから、十字架の意味をじっくり考え書き留めることができたであろう福音記者ヨハネが、上に書いた次に続く節をどう考えたらよいかと今までこのブログでヨハネ伝を読んだ時も指摘したが口語訳はまずい訳です。 ヨヘネ:13:31「さて、彼が出て行くと、イエスは言われた、『今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって、栄光をお受けになった。13:32 彼によって栄光をお受けになったのなら、神御自信も彼に栄光をお授けになるであろう。」(※最初の彼とはユダのこと。あとの三つは新共同や新改訳では”人の子”つまり”イエス”のこと。すべてユダと読めてしまう。実は真の意味だったり?ということではないだろうけれど) 
◆自分の言葉で読んで正直、ひっかかりを覚えるのはおそらく正しいと思うようになりました。マルコ14-21b(bとは後半のこと)つまり、
「人の子を裏切るその人はわざわいである。その人は生まれなかった方が彼のためによかったであろう。」は原文のギリシャ語では「禍だ、彼(ユダ)を介して〔神により〕(人の子)が引き渡されるその人は・・・」となる。いずれこの場面、ユダがイエスによる呪詛の対象となるのであり、僕らが字面の通りユダが「生まれて来なかった」ならば、ユダをを介してなされる神の「引き渡し」行為も実現されなかったことになり理屈的に矛盾することになるからです。(・・・なんと、僕は聖書に書かれていることに疑義を呈している!?)
◆僕はこう考えます。「この生まれて来なければよかったのに」というイエスの言葉は呪詛の言葉ではなく、ユダに対する憐れみのことばなのです。肉としての人、霊としての人があると書いてきた。このイエスの言葉は、肉の人として「引き渡しの行為」という持ち回りを受け持ってしまった〔肉としての〕ユダへの憐れみの言葉なのである と。・・・ Ω