marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(493回目)僕が”しがらみ”と語っているさらに難しそうなこと(その1)

2018-03-20 07:20:22 | 日記
 今回、読まれる前回に掲載した雁谷さんのブログの内容をご理解ください。 
◆普遍的な事柄を人が肉体をその時代にもって生まれ、生き、考える、output(言葉で言い表す)ということは、実に難しいことだということを先のブログから考えてみたい。僕が、このブログで”しがらみ”と書いてきたことがらのクライマックスのような文章が先の雁谷哲さんのブログの内容のようなことだからです。つまり、普遍的な事柄であるにも係わらず、なぜかの知識人は異なる見解が出てきたのかということ。個人の生き方は、それぞれ異なって当然なのであるが、肝心かなめのところでの見解の相違と、また、今の雁谷さんのブログを書いたこれがおそらく一般人と同じなのだろうと思われるその考えについて・・・2009年の記事ですからお考えは変わっているかもしれませんけれど。
◆知の巨人と言われた加藤周一という方が「カトリックの洗礼を受けられたことについて大きな衝撃を受けたと書かれていることについて」・・・いずれ人は、必然的な死の際、遺体の処置の所作を選ばねばならないということ、それこそ神道か、仏教か、キリスト教か、で加藤周一はキリスト教を選んだということだけなのかもしれないが、少なくとキリスト教は生まれも死後もどのような中に有り永遠の世界に住まうのかは他に比べてはっきりしていることは言える。知識人のひとりであろうかの評論家小林秀雄の妹さんが昔、高見澤潤子という方でYWCAの会長さんだったかと記憶、しかし兄貴はモーツァルトやドストエフスキーの評論を書いたが(確か20代でドスを読んでない奴は信用ならんと言ったそうだが・・・)、キリスト教は分からないという(この答えは彼にとっては正解)ことで、お墓は確か名前もない五輪の塔であったと記憶している。「無私の精神」とかの著作もあるが(他に僕は彼の全集あるけれど)が、お葬式は何でやったのだろうな?で、いずれこの国を知るには、彼の評論も読まんといけない。最後に日本文学大賞をもらった『本居宣長』などは日本古来の心情がまさに信条となったようなとても、うなる文章をお書きになっておられた。話は戻り、雁谷さんブログ・・・
◆「聖書を読み、コーランも徹底的に読んだが分からなかった。わたしのように直線的、単線的に科学的な思考しかできない人間にとって聖書もコーランも理解不能のものだった。理解できない物を受け入れることはできない」と書かれていることについて・・・。とは言うけれど、キリスト教の歴史から言えば科学者の方が宗教家が多いような気もする。かのニュートンは神学書もどきも書いているし、僕の好きなマイケル・ファラデーなどはまったく疑うことなくキリストの神を信じていたのだ(あの当時の人々は皆そうだった)・・・で、受け入れることは出来ないという前に、科学者の言葉にする対象物は眼前にあっても今一度、その言葉を「そのようなことを考える自分とは何か」という自分という人間について点検し、言葉にしていくことが求められる。おそらく、誰でもが、肉体に引きずられる言葉(気が付く、付かないに拘わらず)に影響を受けているのだから。これは後ろ向きのかなり後退した言葉であると書いてきたが(だから殆ど人が分からないというか気が付かない)、それは肉体をも含めた外へ向かう言葉でなく、自分という人間を見つめる言葉の要請を宗教書は求めているからである。
◆第一に創世記には、神の似姿に人を創造されたとあるのだから、人を知ることは神を知ることに繋がるという考えが医学というものに寄与発展してきたと言えなくもないのだから。いずれ、長い歴史という先理解の事柄を踏まえないと、それらの宗教書は読んでも分からないということになる。実のところ、どのような宗教家が今でも語ることをやめないのは、先の養老孟司さんの「感覚と意識」、僕の言葉に代えるなら「肉体に引きずられる言葉上の戦い」のような語りが、その相克が必然の自分の死に向かっていく、それを乗り越えようとする言葉の模索になっているからだと言えるのかもしれないし、おそらくそうだろう
◆雁谷さんは、加藤が「カトリックの世界に自分自身のすべてを埋めることになる」と書かれていることについてなのだが、このようなことを書かれるのがすでに人間の限界を示していると僕は思うし、それが自分からの意識できない”しがらみ”から離れて人は思考、判断は殆ど無理というくらいにできないのだということを示しているのです。雁谷さんの後半のかの百年前の大知識人、中江兆民の総括の言葉の紹介も、時代と言えばそれまでだが、一見すかっとするような文章だが、人の思考、判断ということが、つまり、人を知ることは、神が自分の似姿に創造されたのだから、神を知ることになるのでは・・・と進展してきた100年後の僕らの考えからすれば、すかっとすることは、生き物すべてが持つ自分を束縛する言葉を排除しようとする思考であろうけれど、やはり人は限界を自分で表明していることに他ならないと思われるのです。・・・ 続く