marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(490回目)(その4)仏文学者、渡辺一夫・評論家、加藤周一・作家、大江健三郎・神学者、近藤勝彦

2018-03-05 21:52:08 | 日記
 すなおに頭に浮かんだ、知識人を表題にならべました。前のお二人は故人、大江健三郎はご存じノーベル文学賞を授与された作家、最後はもと東京神学大学学長を歴任、現在牧師でもありばりばりの神学者です。キリストを直截に語れるのは、職業柄近藤先生だけだろうと思われますが、他の方達は世界を視野に入れた知識人でもありましたから、キリストに当然、触れられている方でした(と僕は思います)。今回、言いたいのは、ですからあなたも、「あぁ、キリスト教という宗教はこのようなものか」、というような上澄みの知識の満足ではなく文字にするとか、言葉にするとか、聖書の言葉の一端に触れ理解するとかという以前に、魂のと言えば大げさだが、通奏低音のように途切れること無く流れているその行く末の流れを感じて欲しいと思うのですね。当然、宗教家という専門の方に表に現れる所作諸々は、何事においても必要だし引き継いで行かねばならないから先理解のない人には意味不明の儀式もあるだろうが、それ以外の方の多くは個人としてはあからさまに表にはしないし、また、したとしても、その瞬間を生きている内面の、宗教の言葉であるから他には理解できないところもある。だからこそ、欧米の名だたる知識人はその何かの自己とその世界に対する現れ(「感覚と意識」の相克)を言葉にしてきたと僕には思えるのだけれど・・・。で、表題の知識人の関連を述べてみたいと思います。
◆フランス文学者の渡辺一夫という方がおられたことは、学生時代大江健三郎を読んでいて彼の文章の中に、東大の仏文科に行きたいと思ったのは渡辺一夫先生のもとで学びたいと思ったからだというのを学生時代に読んだ事があります。今は物欲国アメリカ一辺倒ですが、そういえばこの国の方は昔、たいていフランス(これは啓蒙思想が流れ込んできたからの影響か、とにかく思想的に幼稚だった日本には、絵描きでも、僕が思いつく知識人はフランスであったような・・・)を目指してましたね。
◆加藤周一は、こう述べています。「周知のように戦前及び戦争中、戦争直後の民主主義的改革の時期、その反動のあらわれている現在、日本の社会的変動とそれに伴う流行イデオロギーの変遷は激しく、作家思想家のなかでこの三つの時期に一定の立場を貫いた者は少ない。その少ない思想家のなかの一人は渡辺教授(渡辺一夫)である。もしわれわれの思想家の思想的一貫性のうすい理由が、外国思想との接触の仕方に関連しているとすれば、渡辺教授の16世紀ヒューマニズムとの接触は特別に注意されてよいはずだろうと思われる。すなわちヒューマニズムは、現代の西欧思想のもっとも広汎な背景をつくっているばかりでなく、わが知識人のなかに深い根をおろした数少ない西欧思想の一つだということになる。・・・・私事に渡ることが許されるならば、私がそもそも西欧思想の一端に触れる機会を得たのは、逆説的にもいくさの最中に渡辺教授を通じてであったと言わなければならない。そして無論それは私だけのことではなかった。」
加藤周一さんと大江健三郎さんが「九条の会」を立ち上げたのは先に書きました。両者がともにフランス文学者渡辺一夫の思想的あり方に影響を受けたのが繋がっていたのがその一因だったかもしれません。
◆以前、大江健三郎の話には、表題も含みキリスト教関係を連想する物語が見られると書いた、そして、師である渡辺一夫はキリスト者だったからなどと書いた。キリスト者が教会という組織に属し、諸々の儀式に預かるという条件に適応するというのであれば、渡辺一夫はそれには該当しない。戦時中にも、教会という組織は戦争加担のような動きもしたのだから、とにかくこういう組織というしがらみからの解放が思想家は第一に必要なことだった。実に多く仕事に係わる上、受け取る側の思考的制限、制約を作ってしまってそこから先理解のイメージをもって考えてしまうので、多くの思想家や文学者は個人の宗教を公にしない。当然と言えば当然である。
◆近藤牧師の説教の中に渡辺一夫のことに触れた説教があったのでその部分を掲載します。************
 今年(2015年)は戦後70年です。3月10日は第二次世界大戦時の東京大空襲からちょうど70年目でした。その日、下町一帯は火の海に包まれ、10万人が死んだと言われます。フランス文学者渡辺一夫の『敗戦日記』はこの東京大空襲の経験から書き始められました。冒頭の一節を改めて読み直してみました。「3月9日の夜間爆撃によって、懐かしきわが「本郷」界隈は壊滅した。思い出も夢も、すべては無残に粉砕された。試練につぐ試練を耐え抜かねばならぬ。カルヴァリオの丘における『かの人』の絶望に、常に思いを致すこと。かの人に比すれば、僕なぞは低俗にして怯懦、名もなき匹夫にすぎぬ。かの人の苦悩に比すれば、今の試練なぞ無に等しい。耐え抜くこと!」とありました。戦時中、キリスト者とは言えない一人のフランス文学者がこういう文章をひそかにフランス語で書き綴りながら生き抜いたことに改めて感銘を受けました。あの時代、あの社会の中で人生の試練、悲惨、迫害の中を生きなければならなかった労苦を思わせられます。渡辺一夫も十字架のキリストを心に抱いて試練の中を生きたというのです。(「迫害下に生きる約束の子たち」と題して)
 教会という組織に安穏としているより、そのしがらみからも解放されて、イエスと会話する・・・これ真のキリスト者ではないだろうか。・・・ Ω